8月6日を迎えて

 8月6日が来ました。広島が原爆で攻撃された日です。
 映画評論家のドナルド・リチーが述べていることを書きます。
 彼は「もののあわれー映画の中のヒロシマ」(「ヒバクシャシネマ」所収)の中で、 日本人が西洋の文物(原爆についての罪悪感もここに含む)を取り入れる場合は、かならず、ある種のモード変換が行われる。それはすべての人間的営為を「はかないもの」「うつろいゆくもの」「諸行無常」という包括的な悲しみの感情のうちに流し込む、というモードである。「これは死や災害に対する(すでに一定の期間が過ぎてしまった後の)真に日本的な姿勢である。」この姿勢はこの時期の原爆映画にはっきりと現れている。『原爆の長崎』(1952)、『長崎の鐘』(1950)、『長崎の歌は忘れじ』(1952)などを見よ、と書いています。
 毎年、今日の日は、「広島に原爆が落ちた日」として表現される。そして原爆投下で亡くなった人々を追悼する日と記述される。何か雷か地震の被害のような表現である。原爆が空から一人で落ちて来たわけでもなければ、天変地異のようにたまたま広島で爆発したわけでもなかろう。
 戦争を引き起こして負けたという責任を誰が取るのか、大量破壊兵器で民間人を無差別に虐殺した人道に反する罪が、戦勝国であるがゆえに免罪されるのか、という、もろもろの糾弾、批判を巧みに封じ込むモードである。自分に都合の悪い事はこの「すべての人間的営為を「はかないもの」「うつろいゆくもの」「諸行無常」という包括的な悲しみの感情のうちに流し込む、というモード」に切り換えて一億総懺悔するわけだ。
 このリチーの分析から、僕は日本の近代化が抱えた、知性の問題を感じる。
 その例を、森鴎外の「安寿と厨子王」に見る。もとの話は説教節として庶民に流布した伝説である。原本を一読すれば判るが(「東洋文庫」や新潮社日本文学大成本で読める)ガラの悪い、始末に負えない復讐譚である。勧善懲悪、因果応報のどろどろ噺である。  これを簡単にそして直裁に理解するためには話は違うが近藤ようこの漫画『小栗判官』(ちくま文庫)を見られると良い。説教節の内容はどの話でもほとんど同じ構造であり、近藤ようこの絵の力は、その原典の持つ衝迫力をストレートに、かつきれいに伝えてくれる。
 「山椒太夫」や「小栗判官」や「石童丸」のような、庶民が熱狂する「説教節の文化」は、これは文明開化にそぐわない。いうならば民族の劣等性の証左のようなものである。文学として救済し変えてしまおう、という文豪鴎外の試み、これこそ「はかないもの」「うつろいゆくもの」「諸行無常」という包括的な悲しみの感情のうちに流し込む、というモード」の適用である。これがまんまと成功して、それ以来日本の庶民には、親の仇や一族の無念のはらしようが無くなってしまった。
 抵抗するものは皆殺しになってしまう(「阿部一族」)のだから、この「諸行無常モード」が賢明で近代的である。悔しい、悲しいことがあったら、東京に出てうんと勉強して出世をして文明的な地位社会で見返してやりましょう。そのほうが、賢い生き方であるーという事を上手に説き聞かせる結果になった。(説教節では厨子王は貴種なわけで、もとの身分に帰った後で自分たちを苦しめ殺した加害者どもを、一人も逃さず、す巻きにしたり、のこぎり引きにして復讐する。それはそれは徹底的なものです。始末におえない、と私が申上げる由縁なのです。ここを聞く観客は手を合わせ念仏を唱えながらも、熱狂するわけでしょう。胸のつかえをおろすわけです。)
 「諸行無常モード」が通用する人はいい。しかし、勉強は出来ない、東京にも行けない人の場合はどうするのですか。復讐しようにもどうにもならない絶対多数は、せめて観念の中で慰められたい、と思うのは間違いですか。その人々にとって「諸行無常」モードのほうが、どろどろの復讐譚よりはましなのでしょうか。金持ちでもないのに、「金持ち喧嘩せず」モードで将来の発展進歩向上にすりかえてしまうのは、悪を悪とし、善を善とする、勧善懲悪思想より好ましいものなのでしょうか。私にはそうは思えません。
 苦しみ悲しみ憎しみを肉体的反応として表現することを日本人が好まなくなったのはいつからでしょうか。私には、足を摺り地に這い五体投地して愛憎を表すことが、明治以前にはあったと思います。その究極として武士の作法を真似た腹切りがあったのです。女性も憤怒と辱めに耐えず腹を切ったという事例があります。
 激しい感情表現は、たしかに円滑な社会環境と人間関係を築くうえで好ましいものではありません。しかし、「諸行無常」モードの人間感情への全面的な適用はあらたな問題を生みだして来たのではないでしょうか。
 すべてのニヒリズムがそこから生まれて来たように思います、鴎外先生。
 そしてこのニヒリズムが、「広島に原爆が落ちました」という記述を生む戦後の日本の意識につながるのではありませんか。
 鴎外先生をあげつらうわけではありませんが、近代日本における知性の偏重が、いわゆる「劇的なもの」を排除してきたツケは、決して小さいものではありません。
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by zo-shigaya | 2004-08-06 15:37