まあ、ええがなの心

 料理を作ることが、いつからストレスになったかを考えた。昔、独身の頃は料理名人であった。やはり愛恋の登場以来だろう。最初は、知識、技術において断然、引き離していた我が輩であるが、いつの間にか、スピード、出来栄え、味の三点で逆転され、厨房王から、哀れ、鍋洗いに転落したのであった。
 愛恋が立てる献立の巧みさ、愛恋が目利きをして購入する食材のイキの良さ、調理技術のスピード、出来上がりの美味さ、それらの前にあっては、手向かいすることは徒労であり、廻りの食客たちの迷惑でありましたから、己の分をわきまえた拙は、常に愛恋に指示と指導を仰いできたのであります。その結果、恐ろしく料理がヘタになってしまった。なによりも、あの料理を作ろう、という気持が起こらぬのであります。何を見ても、愛恋なれば、あれをたとえようもなく上手に美味に作るであろう、愛恋なれば、今夜は素晴らしい献立を考えて一瞬のうちにテーブルに繰り広げるであろう、などと、常に愛恋の指示待ち人間になってしまったのね。
 で、「チビ愛恋」などには、”ワンダもぼんやり突っ立ってないで「厨房王」として復活したら”、”自分で考えた料理でもチャッチャッと作って疲れている愛恋をもてなしてやったらどうなの”などと蹴りを入れられて涙に暮れる我が輩である。しかし、今どきハンバーグステーキとか、豚肉のクワ焼きでもねえだろうが。さればと言って昔習い覚えたビーフ・ストロガノフ・マリア・テレジア風や陳さんの豆醤大排骨やロビュッション直伝のCuisse de canard confiteでは、いたずらに愛恋のカロリーオーバーに貢献するだけである。こんどはそちらから蹴りが入るに決まっている。この泣くに泣けない隘路に立って苦悩している私でありますが、先日、チビ愛恋の友人に晩飯を食わせることになって、冷蔵庫を開けたらゴーヤーが出てきたのであります。はて、と困惑したのでありますが、よっしゃゴーヤー・チャンプルーてなものを作ってやるぜい、と思っては見たが、名のみ知ってて実物を食したことは、まあ、あるんだろうけど記憶が無い。さあ、こうなると「ブリダンの驢馬」と化してダラダラと汗やよだれや涙の塊となって、やぶれかぶれのわんだら顔、いやワンダー顔、活字の料理マニュアルを各所から引っ張り出してきたが、昔のもので「ゴーヤー」なる食材などどっこにも無い。完全に泣き目になってピストル撃ちたくなったが、この時、ハタと気がついた。インターネットがあるではないか。「今晩の御料理」とかなんとか、ヤフーやらgooやらでめちゃめちゃにサーフィンしたら、一杯出てるのね。ようし、どや、とばかりに作ってやったが、これを食べさせられたクマちゃん、今、御元気?
 しかし、その後、愛恋の不在の時には、ネットでメニューを探して作るようになったのであります。なぜかな?案ずるに、私以外の誰かも同じようなもんを作って食べておるのだろう、という「共生共食の安心感」が支えているのかもしれない。「愛恋美饗大飯店」がお休みときは月でも見ながら「電網食堂」というわけね。この心境をあえて言えば、「まあ、ええがなの心」
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by zo-shigaya | 2004-09-02 15:46