ん、誰か呼んだ?


by zo-shigaya

それにしても

 少しまえ、ご飯を食べながら、愛恋公女とフランスの映画俳優の話をしていて、「あれさあ、あの美男の・・・」と言ってなかなか名前が出てこない。しばらく、お互いに顔を見合わせて、やっとルイ・ジューべが出てくる。
 外国人の俳優の名前って、すぐ覚える人と、なかなか定着しない人がいる、例えばフランスの国宝級の喜劇俳優の・・・と言って、これがまた出てこない。あのドタバタのファントマの、あまりに人気が出て名前がバラの新種の花の名前に付けられた、など、余計な事まで思い出すのに(つまり事例想起はできるに)個別標記が出てこない。食事を終えて、もう一軒はしごしてシャンパン飲んで、家へ帰って風呂に入ってベッドに入って、少し眠くなったら、やっとルイ・ド・フィネスと出てきた。
 このごろの新しい「海馬」の説明などを見ると、記憶の構造はいろいろ興味深いものがあるが、私の感じでは、手で書いたものは残る、見ただけや人と話しただけのものは消えやすい、という印象がある。映画俳優の名前なんか、わざわざ書いたことないものなあ。映画評論でも書けば思い出しやすくなるだろう。そのときどんなに印象深く話しをしても、その話した状況は覚えていても、例えば人名とか個別の名称は想起しにくい。これは私に特有な事なのかも知れないが。
 あと、フロイト風に考えれば、意識下に覚えたくない感じ、というのが働いて、邪魔をする、こともあるのだろう。
 同じルイでも、ジューべは「十兵衛」の連想で定着するし、ルイ・ド・フィネスの「フィネス」は、「ヒネす」に連想して「ひねた、ひねこびた、」などの音につながり、人をけなす言葉=マイナスイメージ、となってお行儀の良い僕ちゃんとしては、「使ってはいけません」という規制が働くのかな。
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# by zo-shigaya | 2004-08-21 16:29

台風一過

 8月21日台風一過のきれいな青空に恵まれた朝、7時に起きて庭やら台所の片づけをする。8時半に、お祭りのしめ縄をくぐって、車で○田に行き、ロータリーの会議に出る。
 お昼に会社に帰ってきてメールを見たら「村上龍のメルマガ」に国連職員の春(はる) 具(えれ)さんという方ののレターが乗っていた。(1948年東京生まれ。国際基督教大学院、ニューヨーク大学ロースクール出身。行政学修士、法学修士。1978年より国際連合事務局(ニューヨーク、ジュネーブ)勤務。2000年1月より化学兵器禁止機関(OPCW)にて訓練人材開発部長。現在オランダのハーグに在住)

 同時通訳者としての必須条件をいろいろあげて、次のような事例を述べている。

 「わたくしの同僚にスペインの通訳がおりますが、彼女は英仏語はもちろん、ラテン語、ギリシャ語にも通  
 じ、かつ、なかなかの日本びいきでもあって、拙宅にやってきて鯛めしを食するのを無上の喜びとしている 
 女性である。日本文学に知識も半端ではありません。源氏、近松、太宰なんかもきちんとかじっている。こ
 の間、ハーグに金春流のお能の一座が興行に来て、「葵上」を上演していったのですが(わたくしども
 はこの日ハーグを留守にしていて、この舞台を逃した)、観てきた彼女が感想を話しにきてくれました。

  が、そこからどういうふうに話が飛んだのだったか、隠居後の西行の話になり、はずみで江口の里の話に 
 なった。

  江口の里の話はご存知であろうが、出家したあとの西行が、旅の途中で雨にあい、江口の遊女の軒を借り 
 ようとするときの話であります。雨宿りを所望する西行を、遊女が断る。それに対して、西行は:

  世の中を厭ふまでこそ難(かた)からめ 仮のやどりを惜しむ君かな

 と歌を詠む。遊女はそれに:

  家を出づる人とし聞けば仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ

 という歌を返す。つまり、ちょっと雨宿りに軒を借りようというのに惜しむのはつれないねえと詠んだの 
 に、遊女が出家した方ならば仮の宿に執着されるはずはないと思ってお断りしたのですと答えた、あの話で 
 あります。

  あの話はいいねえということになったのですが、これ以上説明することなく、こういう機微が理解できる 
 ひとが、優れた同時通訳としても成功するのではないか、と私は考えるのであります。」

 話しの中で実際にそらで和歌を引いたりしたわけではなかろうが、たいしたものだ。こういう人はギリシャ悲劇などにも通暁していて、同じように話しが通じるのだろうな。同じ日本人同士で、西行や江口の君が通じる人を探すのが難しいこの頃だ、晩夏の静かな青空にふさわしい、いい話だ。
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# by zo-shigaya | 2004-08-21 13:44

風立ちぬ

8月18日(水)
 8月16日になったらめっきり涼しくなった。日は照っても風が涼しい。さわさわとした秋の風情の風だ。こうなると、毎年のことながら「風立ちぬ、いざ生きめやも」というせりふが口を突いて出て、堀辰雄を思い出す。といっても彼の作品を好きという訳ではない。
 ゛堀辰雄は本所の小梅に育った下町っ子で、夭折の詩人と思われるが、実際は50歳まで生きている。青少年時代から芥川竜之介に傾倒し、直接可愛がられ、文学的影響を受けている。彼の作品はフランス文学の色の濃い、プルーストやラデイゲのような小説を書いている、”という岩波文庫の河上徹太郎の解説を眺めているうちに、思いついて書庫の井伏鱒二の全集を探してみたら、堀辰雄が死んだとき飲み屋でたまたま一緒になった客に、しつこく堀辰雄のことを聞かれて、不快な思いをした事を書いているエッセイを見つけた。

 「堀君のお葬式がすんでから三四日後に、荻窪駅前マーケット街の飲屋で見知らぬ客が私に話しかけた。堀辰雄は将棋が何級ぐらゐであったかと、しつこくきくのである。何級ぐらゐか知らないと答えても、大体のところ何級ぐらゐか、それを云ったって一文の損でもないだろうと嫌やなことを云ふ。相手も酔っていたが、こちらは徹夜をして夜と昼をとりちがえたのを軌道に乗せるため、昼間を眠らないで夕方から飲んでゐた。こんなとき嫌やなことを云われると冷静でゐられない。「存じませんですなあ。それを知る機会が、つい御座いませんでしたからなあ」とお行儀の悪い返辞をした。
 相手は暫く黙ってゐたが、今度は堀辰雄は小説家として譬へば官吏か軍人に見立てたら、どのくらゐの級であったかと訊問するやうな口をきいた。将官か佐官か尉官かと云った。そんなことは知らないと答へると、云ったって一文の損にもならないだろうと変にからんで来て、私に盃を差そうとした。たうとう私は理性を失って、堀君は昔の軍人なら蒲生氏郷だと云った。つづいてまた、堀君は軍人ではない、ばかなことを云ったものだと、大きな声で云った。むしゃくしゃさせてくれるなと云った。云ったあとで胸がさっぱりした。相手も別に悪気があったのではないらしい。私にパチンコが好きか釣堀が好きかと話しかけ、あとはもう引っかかりのないような話をした。(中略)さうだ、生前の堀君もこんな手合は特に苦手であったらう。しかし堀君の聡明は、こんな手合に触れないですむような大道を彼に選ばせた。殆ど完全にそれが出来たらう。ひるがえって私自身、もはやこれはーー云ったって無駄な話だが、よほど以前に一種の会が結成された頃、堀君が、お前さんはそんな会に出席するものではないと注意してくれたことがある。堀君はいろんな意味で大人であった。(後略)」                  『堀辰雄と将棋の香車』(自選全集第8巻285〜6p)

 堀辰雄が亡くなったのは昭和28年(1953年)、井伏鱒二55歳の時だった。
 堀辰雄が生まれたのは明治37年、そして場所は本所小梅というから、おそらく今の墨田区向島のあたり、小梅小学校というのがいまでもあるから、その辺だとすれば、三囲神社があり、隅田川のそばで言問橋があり、川向こうに浅草の待乳山の聖天さんがある。言問橋が架けられたのが昭和3年(1928年)だそうで、それまではいわゆる「竹屋の渡し」が三囲神社の鳥居前から山谷堀、待乳山下までを結んでいた。
 この渡しは本来は、「待乳の渡し」であったそうですが、
”その昔、三囲神社門前の茶屋「都鳥(みやこどり)」にお美代という女将がいて、対岸の船宿「竹屋」の舟を呼ぶ時に「お〜い、たけや〜」と得意の美声で呼んでいたものが評判となって、その名がついたといわれています。たいへん趣のある渡船で墨堤の花見や向島散策の際によく利用されていました。”(墨田区案内)
 
 やっぱり「江戸」なんだな。ヴァレリーやプルーストをあそこまで受容する感性は。

 井伏鱒二と堀辰雄は昭和初期からの同人雑誌仲間であった。(昭和5年(1930年)『作品』の同人)この雑誌の同人には他に、小林秀雄、河上徹太郎、永井龍男、今日出海、三好達治、中島健蔵、佐藤正彰、深田久弥、中村正常など、がいる。(「半生記」井伏鱒二自選全集第7巻396P)
 井伏鱒二の全集を開いたついでに、これをもとにした映画が良く出来ている「本日休診」を読み、その後の「丑寅爺さん」を読み、「多甚古村」を読んだ。(同全集第3巻所収)卓抜した描写力を持ち、なんの衒いもなく、淡々とした言い回しで書き上げる妙手である。あらためて感心する。
 私の「風たちぬ」は、かくて「多甚古村」にて「いざ生きめやも」と決意することで終わった。なかなか趣のある一日であった。
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# by zo-shigaya | 2004-08-19 14:05

パリパリ

8月13日
 お盆だ。夜は芦屋の祖母の家にお墓参りに行く。会うのを楽しみにしていた、○な○ちゃんはひと足違いに東京に帰ってしまって一同ヘナヘナと崩れ落ちる。折角準備したテイファニーの宝石おもちゃや、君島イチョローのオーダーメイドのよだれ掛けも主(あるじ)なくては詮方無し。残念でした。
 家の方では、今年は寺集合午後二時となり、カンカン照りの中のお墓参り。灼熱の盂蘭盆会となる。
 ニューヨークからのた○ま君のメール、ありがとう。そうそう、韓国初のカラー映画「春香伝」とか「風の丘を越えて」とかありましたね。うるるん、うるるんと、八代亜紀の演歌を思わせました。
 でもあれからの韓国映画のバージョンアップはすごいね。丁度8月13日付けの「日本経済新聞」文化欄に「韓流宣伝マン日本駆ける」という見出しで前・駐日韓国文化院長金錘文さんが寄稿しています。韓国映画ブームの仕掛け人として99年から昨年2003年まで日本で奔走した方だそうです。ご自身も大の映画ファンで金さんが赴任するまでは韓国映画は単館公開しかされていなかったそうですが、なんとか全国封切り上映を実現したいと目標を立て、熱心な宣伝とセールスを繰り返し、ついに2000年の「シュリ」で日本全国127館百二十万人の観客動員に成功させました。たいしたものだね。
 金さんが書いているけれども、韓国では映画の好調を受けて、人材育成のアカデミーや国立撮影所、映画祭が、たちまち立ち上がったそうです。韓国人はなんでもすぐ実行しようとする。「早く早く=ハングルでパリパリ」が今の韓国の合言葉で、その活気を三十歳代の若い映画人たちが支えている、といいます。2006年1月には日本の大衆文化の韓国での流通が全面解放される。今度は、日本文化が韓国に「パリパリ」根付くようにお手伝いしたい、という言葉で結んでいます。
 今年の6月かな、ソウルで安室奈美恵が日本と同じレベルのコンサートステージを上演し、韓国の大衆芸能プロデユーサー、興業関係者は、そのステージ作りのレベルの高さに驚嘆した、という記事がネット版の「朝鮮日報(日本語版)」に出ていました。映画だけではなく、エンターテイメントの分野でも韓国は日本市場で、いや世界のマーケットで大きなシェアーを持つようになるよ。
 これからは、我が家でも「パリパリ」を合言葉に、パリパリガンバロウね。冬ソもパリパリ見なきゃね。
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# by zo-shigaya | 2004-08-14 11:31

アラバマ物語その2

 映画を見た後で、試しにアマゾンでアラバマ物語を引いて見たら、セルでDVDがあるのね。その上、「アラバマ物語」が暮らしの手帖社から、依然として刊行されているんだ。さらにハーパー・リーの原作がポケットブックで極めて安価に出版されているのだ。つい、全部注文してしまった。こんな私を、誰も責めてはいけない。
 原書の話しをすれば、ビル・クリントンの「MY LIFE」も、実は買ってあるのよね。翻訳が出るまで読み上げてしまう、つもりなのよね。この志こそ、諸君らは見習うべきだ。尾崎紅葉は、死期があすあす、となってからも丸善にウエブスターの辞典を注文したという。明治人の気概というもんだ。本を買うたびにいつもその事を思い出す。どうだ、いい話しだろう。わっはっはっは・・・あ〜。(後に長くひそやかな泣き声かと思われる音が続く)
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# by zo-shigaya | 2004-08-12 12:38

8月15日を前にして

「アラバマ物語」を見た。8月8日
 「アラバマ物語」といっても知っている人は少ないだろうな。グレゴリー・ペック主演の”アメリカの良心映画”、ということになっている。その評判は聞いていても、まだ見たことがなかった。1962年制作で、その当時、『暮らしの手帖』の裏表紙に毎号、その原作の宣伝が出ていたので良く覚えている。(私は小、中学校時代、『暮らしの手帖』のきわめて熱心な読者だった。現在の生活のこまごました暮らしの知恵や食べ物についての基礎知識はあの雑誌から得たものである。)
 しかし映画を見る機会はなく、その後もビデオ屋の棚で見かけることもなかった。
 それを先日、ツタヤで、DVDになっているのを発見、8日の日曜日に見た。 
 ハーパー・リーの原作は1930年代のアメリカ南部の田舎町をそこに住む子供たちの目を通して描いたもので〜貧しいが落ち着いていて、時間がゆっくり流れている白人中心の社会、その秩序に従っていれば、互助と友愛の人間関係が暖かく息づいている社会の叙述に中心を置いているもののようだ。発表した1960年代には最早失われた思い出の世界であり、アメリカ人の多くにとっては、この小説は郷愁を誘うものであり、大ベストセラーとなった、という。
 子供たちにとって夢のような日常の中で、強姦未遂事件が起きその下手人は黒人青年とされた。町の判事は、その弁護を子供たちの父親の弁護士に依頼し、彼は町中の白人の敵意の中で、黒人青年の無罪の証明に全力を尽くすことになる。その弁護士役にグレゴリー・ペックが扮し、彼の人柄そのまま、という感じで好演する。彼にとっての最高の役所ろだろう。
 こういう、善人が善人として活躍し、敗れても毅然としてその態度を変えないという映画は見ていて本当に気持がいい。逆に、その後のさまざまなひねりや小細工に満ちた映画に慣れた目から見れば、あんまりまとも過ぎて気持が悪い、とか、単純、とか、あれこれ不満が出るだろう。しかし、『スミス都へ行く』とか『友情ある説得』とか、あるいは近くは『クレイドル・ウイル・ロック』(1999年テイム・ロビンス監督)など、「アメリカの良心映画」の流れというのは、こういうものなのだ。手放しで感動しなさい。
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# by zo-shigaya | 2004-08-12 10:38

夏の冬ソ

 「英語でしゃべらナイト」から思わぬ方向へ展開した我が家で、ついに昨夜「冬ソ」観賞会が開催されました。シリーズ第1,2回、つまり二人の出会い、懊悩しながら彼女のもとに駆けつける途中の事故発生までのところを見ました。我々はカウチポテトで手を握りあいながら、感嘆と驚き、で見通したのであります。
 1.よくまあこれほど、正統純情純愛ドラマを作ったものだ。
 2.女性の美形に加えて、男も思いっきり美形にしたこと。
 3.音に聞くマッチョの国で、これだけ優しい男性像を作ったこと。
 4.インターナショナルなドラマ表現に徹したこと。
 視聴者に筋の展開を予想させながら、意表を突いて進行するのは連続ドラマの手法ですが、これも出生の謎をあれこれとからませ、大いに視聴者を悩ませる仕掛けだ。
 ぺ・ヨンジュンは若いときの片岡仁左衛門に似ている。徹底的にきれいに優しく、かしこくスマートに、悩み深く作っている。スポーツも出来、ピアノも弾ける、数学は天才的で、長身細身、語学も2〜3カ国語はいけそう(おそらく)。
 しんみり、しっとりした映像の作りは日本の方が上手なはずだが、こんなきれいきれいに徹したドラマ、紙芝居の美しさと面白さの作品は、今の日本では企画段階で絶対通らないだろうな。でも昔から大衆はこの手のドラマを熱望してたものだ。昭和40年代に山口百恵の一連のドラマシリーズが大ヒットしましたな。(さすがに見たことはないけれどあれよりはよほどスマートじゃないのかな)
 日本のテレビ屋さんたちの意表を突いたものだ。これで韓国のイメージが変わるね。
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# by zo-shigaya | 2004-08-07 12:29

8月6日を迎えて

 8月6日が来ました。広島が原爆で攻撃された日です。
 映画評論家のドナルド・リチーが述べていることを書きます。
 彼は「もののあわれー映画の中のヒロシマ」(「ヒバクシャシネマ」所収)の中で、 日本人が西洋の文物(原爆についての罪悪感もここに含む)を取り入れる場合は、かならず、ある種のモード変換が行われる。それはすべての人間的営為を「はかないもの」「うつろいゆくもの」「諸行無常」という包括的な悲しみの感情のうちに流し込む、というモードである。「これは死や災害に対する(すでに一定の期間が過ぎてしまった後の)真に日本的な姿勢である。」この姿勢はこの時期の原爆映画にはっきりと現れている。『原爆の長崎』(1952)、『長崎の鐘』(1950)、『長崎の歌は忘れじ』(1952)などを見よ、と書いています。
 毎年、今日の日は、「広島に原爆が落ちた日」として表現される。そして原爆投下で亡くなった人々を追悼する日と記述される。何か雷か地震の被害のような表現である。原爆が空から一人で落ちて来たわけでもなければ、天変地異のようにたまたま広島で爆発したわけでもなかろう。
 戦争を引き起こして負けたという責任を誰が取るのか、大量破壊兵器で民間人を無差別に虐殺した人道に反する罪が、戦勝国であるがゆえに免罪されるのか、という、もろもろの糾弾、批判を巧みに封じ込むモードである。自分に都合の悪い事はこの「すべての人間的営為を「はかないもの」「うつろいゆくもの」「諸行無常」という包括的な悲しみの感情のうちに流し込む、というモード」に切り換えて一億総懺悔するわけだ。
 このリチーの分析から、僕は日本の近代化が抱えた、知性の問題を感じる。
 その例を、森鴎外の「安寿と厨子王」に見る。もとの話は説教節として庶民に流布した伝説である。原本を一読すれば判るが(「東洋文庫」や新潮社日本文学大成本で読める)ガラの悪い、始末に負えない復讐譚である。勧善懲悪、因果応報のどろどろ噺である。  これを簡単にそして直裁に理解するためには話は違うが近藤ようこの漫画『小栗判官』(ちくま文庫)を見られると良い。説教節の内容はどの話でもほとんど同じ構造であり、近藤ようこの絵の力は、その原典の持つ衝迫力をストレートに、かつきれいに伝えてくれる。
 「山椒太夫」や「小栗判官」や「石童丸」のような、庶民が熱狂する「説教節の文化」は、これは文明開化にそぐわない。いうならば民族の劣等性の証左のようなものである。文学として救済し変えてしまおう、という文豪鴎外の試み、これこそ「はかないもの」「うつろいゆくもの」「諸行無常」という包括的な悲しみの感情のうちに流し込む、というモード」の適用である。これがまんまと成功して、それ以来日本の庶民には、親の仇や一族の無念のはらしようが無くなってしまった。
 抵抗するものは皆殺しになってしまう(「阿部一族」)のだから、この「諸行無常モード」が賢明で近代的である。悔しい、悲しいことがあったら、東京に出てうんと勉強して出世をして文明的な地位社会で見返してやりましょう。そのほうが、賢い生き方であるーという事を上手に説き聞かせる結果になった。(説教節では厨子王は貴種なわけで、もとの身分に帰った後で自分たちを苦しめ殺した加害者どもを、一人も逃さず、す巻きにしたり、のこぎり引きにして復讐する。それはそれは徹底的なものです。始末におえない、と私が申上げる由縁なのです。ここを聞く観客は手を合わせ念仏を唱えながらも、熱狂するわけでしょう。胸のつかえをおろすわけです。)
 「諸行無常モード」が通用する人はいい。しかし、勉強は出来ない、東京にも行けない人の場合はどうするのですか。復讐しようにもどうにもならない絶対多数は、せめて観念の中で慰められたい、と思うのは間違いですか。その人々にとって「諸行無常」モードのほうが、どろどろの復讐譚よりはましなのでしょうか。金持ちでもないのに、「金持ち喧嘩せず」モードで将来の発展進歩向上にすりかえてしまうのは、悪を悪とし、善を善とする、勧善懲悪思想より好ましいものなのでしょうか。私にはそうは思えません。
 苦しみ悲しみ憎しみを肉体的反応として表現することを日本人が好まなくなったのはいつからでしょうか。私には、足を摺り地に這い五体投地して愛憎を表すことが、明治以前にはあったと思います。その究極として武士の作法を真似た腹切りがあったのです。女性も憤怒と辱めに耐えず腹を切ったという事例があります。
 激しい感情表現は、たしかに円滑な社会環境と人間関係を築くうえで好ましいものではありません。しかし、「諸行無常」モードの人間感情への全面的な適用はあらたな問題を生みだして来たのではないでしょうか。
 すべてのニヒリズムがそこから生まれて来たように思います、鴎外先生。
 そしてこのニヒリズムが、「広島に原爆が落ちました」という記述を生む戦後の日本の意識につながるのではありませんか。
 鴎外先生をあげつらうわけではありませんが、近代日本における知性の偏重が、いわゆる「劇的なもの」を排除してきたツケは、決して小さいものではありません。
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# by zo-shigaya | 2004-08-06 15:37

URLを変更しました。

 開設以来皆さまからご好評を戴き、篤く御礼を申上げます。しかし、IDから筆者のやんごとなき身分やお姿が、容易に拝察される畏れがあり、万が一これが国民各位の知るところとなれば、国際世論を巻き込んだ大報道合戦の場となるやも知れず、いたずらな紛擾のため、サーバーやマイクロソフト社、果てはCIA, UN 各位を煩らわせることも、あるやも知れず、ないやも知れず、知れず知れずに暮れ行く空に、飛び行くカラスの影も無し、ということで本日より、こちらのお座敷にて、日記をしたためることにいたしました。
 外部に対する匿名性というものが、自由な意見の公表を保証する原則であります。
という事で引き続きご愛読ください。
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# by zo-shigaya | 2004-08-06 12:08