07年8月9日
今年の4月に「石原違い」という文を書いた。
http://zoshigaya.exblog.jp/tb/6704627
石原慎太郎と石原信雄という人が、いかに品性見識人格力量経験において違うか、を述べたものでありましたが、古い話をしたついでに、もう一つだけ書き加えておくことがあります。
というのは、慎太郎が選挙の時であったか(発言の時期はここで特定しないが)「阪神淡路大震災のときに、自衛隊をもっと早く出動させれば被害が防げたのに、自衛隊アレルギーを持つ者がグズグズしていたために被害がひろまった」という趣旨の事を言った、という。
事実を正確に書く。
1995年1月17日の大地震勃発にあたり、ときの石原信雄官房副長官は、自衛隊の出動を要請したのである。彼は17日の午前9時前に官邸入りし、「大変な事態になる」と判断して、自衛隊法83条2項の「(都道府県)知事の要請を待つ時間がない緊急事態の場合」は要請なしで自衛隊を出動できる、という項目に注目し、これに基づき自衛隊出動を発議した。しかし、それは出来なかった。なぜか。それについては、石原信雄ご本人が後日、新聞に書いている。
「(自衛隊を出動させようにも、災害対策基本法では)自然災害の情報は、すべて国土庁防災局に集約され、被害がシビアなものは直ちに首相官邸に連絡が来るようになっている。そうしたマニュアルが決まっているのに、今回は元(防災局)が動いていなかった。防災局に正確な情報が入らず、防災局自身が事態を把握するのに多くの時間がかかった」毎日新聞1995年1月29日
この当時の国土庁防災局への情報伝達入力の入り口は地方自治体である。その自治体の各部門では、というよりは首長をはじめ無事な職員は自分の身の廻りだけしか把握できない状況であり、自衛隊に出動を要請することはおろか、国土庁への連絡もままならない状態だった。
さらに、時間をおいて出動した自衛隊の先遣部隊がつかんだ情報は無線で中部方面総監部を経由して防衛庁・陸海空各幕僚監部の専門家を配置した情報・指揮センター(CCP)で一本化されることになっていたが、最初のレポート「各自衛隊の対応」が出来上がったのはその日の午後5時。
毎日新聞に載った陸幕監部の言葉として「テレビの方が全体像をつかめた」とある。
リアルタイムで画像をCCPに送れる「映像電送装置」は、この頃は一台しか備えていなかった、という。
こういう体制であったのだ。
自分は平時にぬくぬくとしていて「乃公いでずんば天下になにごとかあらん」などと大言壮語してイキがっているのを、西郷隆盛は「夜郎自大」と罵倒した。
巡り来る9月、防災の日を前にして、首都東京の安寧無事を心から願うものである。
(ps.書いて蒲団に入ってから、あれ、たしか「夜郎自大」であったな、と気が付きましたので、こっそり訂正しておきます。8月10日)
今年の4月に「石原違い」という文を書いた。
http://zoshigaya.exblog.jp/tb/6704627
石原慎太郎と石原信雄という人が、いかに品性見識人格力量経験において違うか、を述べたものでありましたが、古い話をしたついでに、もう一つだけ書き加えておくことがあります。
というのは、慎太郎が選挙の時であったか(発言の時期はここで特定しないが)「阪神淡路大震災のときに、自衛隊をもっと早く出動させれば被害が防げたのに、自衛隊アレルギーを持つ者がグズグズしていたために被害がひろまった」という趣旨の事を言った、という。
事実を正確に書く。
1995年1月17日の大地震勃発にあたり、ときの石原信雄官房副長官は、自衛隊の出動を要請したのである。彼は17日の午前9時前に官邸入りし、「大変な事態になる」と判断して、自衛隊法83条2項の「(都道府県)知事の要請を待つ時間がない緊急事態の場合」は要請なしで自衛隊を出動できる、という項目に注目し、これに基づき自衛隊出動を発議した。しかし、それは出来なかった。なぜか。それについては、石原信雄ご本人が後日、新聞に書いている。
「(自衛隊を出動させようにも、災害対策基本法では)自然災害の情報は、すべて国土庁防災局に集約され、被害がシビアなものは直ちに首相官邸に連絡が来るようになっている。そうしたマニュアルが決まっているのに、今回は元(防災局)が動いていなかった。防災局に正確な情報が入らず、防災局自身が事態を把握するのに多くの時間がかかった」毎日新聞1995年1月29日
この当時の国土庁防災局への情報伝達入力の入り口は地方自治体である。その自治体の各部門では、というよりは首長をはじめ無事な職員は自分の身の廻りだけしか把握できない状況であり、自衛隊に出動を要請することはおろか、国土庁への連絡もままならない状態だった。
さらに、時間をおいて出動した自衛隊の先遣部隊がつかんだ情報は無線で中部方面総監部を経由して防衛庁・陸海空各幕僚監部の専門家を配置した情報・指揮センター(CCP)で一本化されることになっていたが、最初のレポート「各自衛隊の対応」が出来上がったのはその日の午後5時。
毎日新聞に載った陸幕監部の言葉として「テレビの方が全体像をつかめた」とある。
リアルタイムで画像をCCPに送れる「映像電送装置」は、この頃は一台しか備えていなかった、という。
こういう体制であったのだ。
自分は平時にぬくぬくとしていて「乃公いでずんば天下になにごとかあらん」などと大言壮語してイキがっているのを、西郷隆盛は「夜郎自大」と罵倒した。
巡り来る9月、防災の日を前にして、首都東京の安寧無事を心から願うものである。
(ps.書いて蒲団に入ってから、あれ、たしか「夜郎自大」であったな、と気が付きましたので、こっそり訂正しておきます。8月10日)
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by zo-shigaya
| 2007-08-09 12:56
| 近時片々