ん、誰か呼んだ?


by zo-shigaya

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初夏の書架

6月12日
 選考試験の事で気が休まらない。人を選考するというのは、選考される人も大変だけど、選考する方もすごいストレスだ。でも仕方がない。こんなつらいことも、いつか過ぎてくれるだろう。
 と、ロー・テンションの中での日曜日、大塚久雄先生の「生活の貧しさと心の貧しさ」(みすず書房)を読む。
 中に森有正との対談がある。
 夏のバカンスでパリが空っぽになる、という現象が起きたのは、20世紀初頭の社会保険制度の整備が行われてからのこと、フランス人は金はそのままにしておくと減っていく、という感覚を持っていてなんとか増やそうと努力している、と森先生が言っている。1970年ごろの対談だ。フランスの庶民の金銭感覚はがっちりしている、という感想を読むと、この生活防衛意識が、高い政治意識を支えているのかしら、という素朴な感慨を抱いてしまう。
 預金しても利子がゼロ、などという政策を十年以上も続けている政権を飽きもせずに支持している国とは発想が違う。ヨーロッパだけじゃなく、どんな共和党びいきのアメリカ人だって10年間金利をゼロにしたら、ブッシュなんかキックオフだろう。退職者年金を運用している投資会社がばたばた破綻してしまうから政治家にとってこんな怖い事はない。
 フランス人の国民性を知るべく書架に赴く。『フランス人』という抱腹絶倒の本をちらっと見るが今日はここまでふざける気持でないから『パリ歴史物語』(原書房)を開く。ミシェル・ダンセルの原書もさることながら、これを翻訳して詳細な訳注をいれた 蔵持不三也さんの仕事も大したものだ。と、つい読みふける。パリの町々に残る地名から大革命からコミューンまでの激動の歴史を一瞥するだけで粛然とする。
 ついで、そばにあったアランの「プロポ1」(みすず書房)を開き、1907年ごろ書かれた文章を見る。滋味深いとか言うものとはまったく違う、切れば血が出る現実との激しい緊張感をたたえたエッセイだ。第一次大戦前のヨーロッパについては桜井哲夫さんの『戦争の世紀』を読んでからまったく知識の深みが違ってきたが、その導きのせいかアランの言うことが一字一句、胸にささる。党派性や時代の勢いに与しない、冷静で知的な大した思索家だ。この人の著作を「幸福論」とか「教育論」とかいった書名で出すのは間違いだと思う。
 ここで止まれば静かな日曜日だが、新潟市の市民ボランテアの活動記録『この手は命づな』(太郎次郎社)に移って、あれこれと老人介護の事に思いをめぐらしているうち、小澤勲先生が『認知症とは』(岩波新書)の中で、高齢者は「虚構の世界」に生きている、わからないようでわかるのだ、判り方が違うのだ、といっていたことを、それは例えば、宮沢賢治の『クラムボン』のようであったり、あるいは水の底にいる鮒が明るい水面からゆらゆら落ちてくる物を次第に認識するような状態かな、と思ううちに、そういえば、あの中島敦の『山月記』というのは認知症の状態を表しているとも言える、と思い至る。
 虎になった人間は、一日のうちある時間は人間に帰る、という。しかしそれが次第次第に短くなっていく、と言って虎は泣く。
 虎になったいわれも、読んでみれば認知症になっての問題行動に符丁を合わせるものだ。
 暮れなじむ初夏の宵に『山月記』を朗読するに至って、この名文に酔ったのか、はたまた白ワインのせいか、最早、常態にはあらざる私である。
 かかる説話はわが朝(チョウ)にも多くある、と書庫にとって返して『宇治拾遺集』(岩波新古典大系)を引っ張りだして読む。と、なんでまた、日本の古典はこのようにシモネタのオンパレードであろうか、と爆笑、憫笑しているうちに、最早爆睡の時間であった。
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by zo-shigaya | 2005-06-13 18:01