ん、誰か呼んだ?


by zo-shigaya

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電子書籍-2

日曜日の日経新聞の美術面「名画はよみがえる」に、河鍋暁斎の「暁斎漫画」が掲載されている。もちろん全編ではなく、その10~11葉、通称「富士越しのナマズ」がほぼ原寸大原色版ででている。

これこれ、このような版本を、電子書籍にしてくれれば、いいのである。
江戸の黄表紙は、ほぼこの大きさであるから、ちょうどi-pad の大きさである。

これをページをめくりながら眺めることが出来たら、どんなに楽しいだろうか。

初めて見る人は、日本の文化の素晴らしさ、面白さに、驚嘆するであろう。

所蔵本のダウンロードの料金は、各美術館、所蔵者のお心のままでよい。鑑賞者は、日本国内だけではなく、世界中の美術愛好者であるから、かなりの収入になるのではないか。

何万人にダウンロードさせても、所蔵品に痛みはなく、人件費やらメンテナンスの出費もない。

ほとんどが個人の篤志によって成り立っている個人美術館にとって、些少ながら維持費の足しにはなるだろう。

愛好家にとっては、夢に描いていた眼福の、まさかの実現である。

今こそ、死蔵されている厖大な江戸版本が、私達の、共通な宝となる、そんな日が一日も早く実現されますよう、どなたか、音頭を取っていただけませんか。
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by zo-shigaya | 2011-01-17 14:46

電子書籍

 ものは試し、とアマゾンのキンドルとi-pad を購入して欧文の電子書籍を読んでみる。キンドルの使い心地は誠に良い。長時間の読書にもなんの負担もない。i-padの方は、カラー画面で楽しいが、あまり長い時間の読書には疲れる。どうしても液晶画面の明るさが目に負担を与えるようだ。
 この使い勝手の良さで、日本語の本も読めたらどんなに素敵なことだろうか、と思う。
私の希望は、著作権などの問題でまだ解決がつかない現行の活字本ではなく、日本語の古典の原文を、電子書籍にしていただきたい、ということである。
 例えば、「源氏物語」や「枕草子」といった原典である。紙の本としては影印本として数種刊行されているが、その原典をそのまま電子書籍にするのである。
 あるいは、江戸時代の和書、版本をそのままである。中野三敏先生が「図書」にお書きになった文章によれば、江戸時代の版本のうち、活字になっているものは、数%(正確な数字は忘れてしまいましたが)だそうだ。コンマ数%であったかもしれない。私たちの文化遺産の大部分は死蔵されて、後世の人々の目に触れないままなのである。
 つまり、現在の日本人は、明治以降に出版された活字本しか読んだことがない、というのが実態である。
それ以前の和書や写本に触れたことがある人は、きわめて少数である。

 電子書籍という画期的な読書ツールが出来たのを機会に、ぜひ、和書、写本を電子書籍として閲覧可能なものにしてほしい。
 そして、それは難しいことではない。実は、各図書館に架蔵されている和本は、以前から、「デジタル・コンテンツ」化されているのである。日本の大学図書館や国会図書館、公文書館などのホームページにアクセスすればかなりの文献がデジタル化されている。
それを電子書籍として、端末からアクセス可能な状態にすればいいだけである。

 藤原定家さんが書写した古今和歌集や、江戸の大田南畝さんの戯作や、あの楽しい黄表紙本などが、ワンクリックでダウンロードして、このi-pad で読める、眺めることが出来るとしたら、なんと嬉しいことだろう。

 たしかに「へんたい仮名」や崩し文字をすらすら読めるようになるには学習が必要だけれど、活字で読むことの味気無さが、本当に実感できるだろう。
  私たちが培ってきた日本語の文化、というものが、今あらためて明らかになると思うのです。
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by zo-shigaya | 2010-12-24 13:09

キャラバンは進む

《犬は吠える、がキャラバンは進む》

「あれはたしか1950年か51年の春だったと思う、・・・2月の暖かい日であった。シチリアでは春の盛りであった、私はひじょうに年をとったある人と話をしていた。その人はモンゴル系の顔に黒いビロードのポルサリー丿をかぶり、アーモンドの花の香りに満ちた季節であるにもかかわらず厚い黒いケープをはおっていた。その老人はアンドレ・ジッドであった、2人は護岸に腰をおろし、揺れ動く青い炎のような古代の海を見おろしていた。
(・・・郵便配達人が手紙を手渡して行ったがその中に私への悪意をこめた批評文を同封したものがあった)
 その批評について、また批評精神一般の不健全性について、私が文句を言うのを聞き終わると、フランスの大文豪は背を丸め、肩を落とし、まるで賢明な老いたる・・・禿鷹のように、と言っていいだろうか?・・・そんな顔つきで言った、「ま、いいじゃないか。アラブにこういう諺がある、覚えておくんだな。《犬は吠える、がキャラバンは進む》」

 トルーマン・カポーテイ 『犬は吠える』(「ローカルカラー」所収)

 メデア・ファシズムの嵐の中で精神の安定を得るためのおまじない。
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by zo-shigaya | 2010-06-10 10:56

男もすなる○○を

 しかしここまで言うか
 女優の秋吉久美子が早稲田大学大学院で修士号を取得、20日学位授与式に出席。式後、記者に感想を聞かれて「大きな社会の本流を教わった。ふんどしを締め直して本業もしっかりやりたい」とうれしそうに語ったそうだ。(9月22日日経新聞コラム『窓』)
 
女相撲でもあるまいし、そんなセリフがあるかよ、という感じ。
記事には学位記を手にしている写真も付いているが、普通のスーツ姿だ。
ちなみに修士論文のテーマは神社仏閣と地域活性化についてまとめたものだそうだ。

 これからは、男は、「腰巻きを巻き直して頑張ります」と言うか。
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by zo-shigaya | 2009-09-24 11:03
 自民党が総裁選挙をしている。毎年やっているのでお馴染になった。9月22日の日経新聞の記事を見ると「自民総裁選 節約モード」という見出しで「なるべくカネをかけない方針」で選挙をしているという。各候補者の政策パンフなども党員に送付することもやめて、地方遊説も去年の17ヶ所から12ヶ所に減らしたそうだ。
 野党になったのだから節約は当然だろうし、それ以上に、衆議院選挙での空前の大敗を党員や支持者に詫びる、という意味もあるのだから、禊(みそぎ)選挙、懺悔行脚というべきものだ。
 これまでの長期政権による奢りの反省や組織運営の抜本的な批判など、立ち入った内輪の事情、責任問題も、問われねばならない。
 すべてを明らかにして再建の方向を全国の自民党支持者の方々へ提案する義務があるだろう。
 そこから考えれば、現在のような選挙運動は不十分極まるものである。
 街頭で一般の聴衆に演説して、なにほどの再建効果があるというのか。そこで聞いている聴衆のほとんどは、自民党総裁選挙の投票権など持っていないのだ。選挙権を持つのは、誰か。国会議員のほか、各県連の役員や地方議員たちである。数にして微々たる人々である。
 不特定多数の聴衆への街頭演説会などをやるよりも、ブロックごとに投票権者たちを集めて、そこで候補者は一日かけて所信を述べ意見を聞き、討論をすべきなのである。そうすれば、これまでの、党大会や県連幹事長会議などでは聞けなかった地方の本当の意見が表に出て、自分たちの敗因がなんであるか、を骨身に染みて理解することが出来るはずだ。
 「小泉改革が是か非か」、あるいは「大きな政府か小さな政府か」、などというマスコミが誂(あつら)えた議論の枠に収まることなく、なぜ自民党がここまで嫌われたか、という実態を、今こそ、肌身に滲みて感じとることが大事なのだ。
 そのような集会を開いて、率直に議論をし、真摯に意見を交換すれば、ただちに判ることがあるはずだ。
 つまり、かって自民党を支えてきた、良識と節度を保った日本社会の大人たちが影を潜め、声と態度の大きい、政治を自分の利権に奉仕させようという人々がそこに群がっている、とう事実にである。
 自分たちは、このような人々の為に政治をしてきたのか、という深い慚愧の念にかられる事なくして、自民党の再生などない。
 これからも、一部の人々の利益の先兵として党を運営するのか、それとも、本来の保守保全の党として日本国の為に働くのか、この事に思いをはせ、深く反省することなくして、総裁選は茶番であり、自民党再建は夢のまた夢だ。




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by zo-shigaya | 2009-09-22 14:03
 日本の食糧自給率は40%しかない、とさかんに言われるが、一方では捨てられてゴミになる沢山の食糧がある。それがどのくらいあるものか、数字がTKCが全国の税理士事務所の通信として配付しているものに掲載されている。そこから引用させてもらう。
 (なお、要旨のみを摘んで引用します。)

「食べ残し大国」日本   TKC発行「事務所通信」08年10月号掲載

 全国のごみ総排出量は年間5,200万トンで、東京ドーム140杯分、一人一日当りのゴミの量は1kgを超える。これを処理するのにかかる費用は、日本全体で年間約1兆8,600億円。一人当たり約1万4,600円の税金が使われている。

 平成18年度の統計で、ごみの総排出量の約64%が家庭のごみ(生活系ごみ)で3,316万トン。事業系ごみは1,581万トン。

 その生活系ごみの約3分の1が食べ残しなどの生ゴミといわれる。

日本は、年間5,800万トンの食糧を輸入している一方で、約2,000万トンの食糧を捨てている。
(原文で2,000万トンとなっているが、3,316万トンの3分の1なら約1,100万トンではないか、と思うが、これには、事業系ごみの中の生ゴミを計上しているのかもしれない。不明なのでそのまま引用する)

 食べ残しや手付かずのまま捨てられたものの価値は、年間約11兆円にのぼるという。

 国民一人に供給される一日の食事の総カロリーと、実際に食べた分の差(ムダになったカロリー)は、昭和40年 256Kcal  に対し、平成18年 659Kcal となる。
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 一時期よりは差が縮まっている(これまでのピークは平成7年の668Kcal )ものの、毎日ほぼ1食分のカロリーが捨てられている計算になる。
 <引用終わり>

 この数字を見ると、うわあ、「もったいない」なあ、と思う。家庭における食材のムダは、それこそ「もったいない」運動で工夫・節約しなければならない。
 ゴミの処理も、新聞などでは、肥料に返していく運動なども取り組まれているのだが、それでも膨大な量となって、自治体の財政を圧迫している。

 このムダを防ぐための提案も挙げられているが、そのなかで「賞味期限・消費期限にとらわれすぎない。(食中毒防止のために余裕をもって設定されている)色や臭い、形、感触、味などで判断してみる。」
とある。 

 ただ、これらの表示を義務付けている現行の「食品衛生法」の抜け穴、不備については、ここ2,3年、さまざまに指摘されて、昨年の1月には総理大臣が消費者庁を設置して整備する、と言明したが、その方はあえなく9月には退任。その後どうなっているものやら。
 いかに現行の「食品衛生法」が消費者の立場に立っていないか、という問題点の指摘は、また日を改めて。
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by zo-shigaya | 2009-01-17 10:42
レジ袋は環境に負荷を与えるか
 スーパーでレジ袋を有料、という動きがある。行政もそれを推奨するところもある。しかし、本当にレジ袋は環境に負荷を与えるのか、私たちに示されている数字の根拠を知りたいと思っていたら、たまたま、下記の記事を見た。
 ここで引用させて戴く。

「レジ袋有料化に一言」
  高階玲子(ジャーナリスト、元TBSアナウンサー、ロンドン在住)
       (掲載誌は「専門店」08年4月号)
「・・・レジ袋の有料化が、イギリスでも議論の的となっている。例えば、大手スーパーのM&S(マークス・アンド・スペンサー)では5月から一枚5ペンス(10円ちょっと)になる。
 有料化の理由は、無料だと消費者は際限なく使ってムダにするから、有料にして抑止力とすることだそうだ。その他に、・・・「レジ袋は環境に悪い」、「街が汚れる」、「魚が食べて死ぬ、鳥の足に絡まる」などが挙がっている。」
 では本当にレジ袋は環境に悪いのか、著者は以下の数字を挙げる。

「レジ袋は、紙の袋に比べて、生産段階で、エネルギー消費量は40%、水使用量は80%、廃棄物は90%少なく、廃棄処分にする際の焼却段階でのCО2排出量も72%少ないという。
 1年間に大人一人が消費するレジ袋のCO2排出量は、車が百メートル走る時に出る量と同じ、つまり、そのくらい少ないそうだ。
 この程度の「環境への負荷」は、ヒトが社会生活を継続する上で、許容範囲だろう。レジ袋は消費財としては、けっこう優等生のほうではないだろうか。」

 さて、有料化によってレジ袋を買う人は減るだろうが、その反面、
「・・・エコバッグ・・として生産されたバッグ類の多さに、レジ袋が使えないので、あらたに買ったゴミ袋などがプラスされて、プラスチック使用量が五倍以上に上がってしまったという事実が、レジ袋有料義務化を導入したアイルランドで実証されている。」

 その他の、レジ袋が散らかる、とか動物が被害に遭うなどの理由は、使う人間のモラル、しつけの問題で、レジ袋が悪いわけではない、と著者は言う。

 そして「有料化は確実に値上げである。この物価高のイギリスで、また値上げ、また消費者負担!」

 「M&Sは、有料化による利益はチャリテイに寄付するというが、これはチャリテイの強要で、私は寄付するなら、寄付先も金額も自分で決めたい。スーパーの「エコ・イメージ」作りに踊らされたくない。」

 別のスーパー「テスコ」では、分解できるプラスチック製のレジ袋を採用して、無料である。袋を持参するとポイントが付くサービスもしている。生活防衛の為には、
 「M&Sに行く時は、まだ有料化を決めていないテスコのレジ袋を持って行く」
 これは「半分冗談、半分本気」だが、
 「レジ袋は、消費者が不要なら断り、最大限大事に使い、正規に処分しさえすれば、有料化の正当性など、ない」
 と締めくくっている。

 この著者のおっしゃることに同感である。

 東京では、表参道の「ナチュラル・ハウス」がいち早くレジ袋を有料化している。
 この間、長い改築期間が終わって、やっと元の場所に帰ってきた、お隣の「紀ノ国屋」は、まだレジ袋は無料だ。(と思う。この頃行ってないが)
 「紀ノ国屋」は買い物袋持参をお願いしていて、レジ袋を断ると「エコ・スタンプ」を押してくれる。

 「ナチュラル・ハウス」の有料化は、「エコ・イメージ」作りで差別化しようという店舗戦略が優先しているのかもしれない。
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by zo-shigaya | 2009-01-07 18:18
 高校生の子供を持つ親の会話を聞いていると、子供たちのケイタイ電話料金が月に1万円くらいかかるらしい。それくらいならいいほうよ、ウチはもっとかかる、という会話になる。高校生のお小遣いはいくらか、月1万円電話代であとどれくらい可処分所得があるのだろうか。
 家電は使用回数が少なくなったとは言え、ネット通信を利用していればその使用料でおそらく5,6千円、さらに親それぞれにケイタイがあるのだから、通信費だけで1世帯どれくらいの出費になるのだろう。2万か、3万か。以前であれば発生しなかった経費だ。
 なるほどケータイ貧乏。
 お茶屋さんと話をしたら、お茶なんてさっぱり売れません、という。そもそも急須を持っている家庭が少なくなりました、という。ほとんどがペットのお茶。小さな子たちのご飯の時も、急須から注いだお茶よりもペットのお茶をテーブルに置いている家庭が多い。キャップを取ってすぐ、お茶、って便利かな。でも、急須から注げば一杯3円くらいのお茶が、ペットとなれば百円以上する。
 家計の負担が、こんな形で増えているのが、格差の原因?

 このごろの市役所や官庁の会議では、テーブルの上に水やお茶のペットを置いている。お茶汲みは女性差別ですからやめました、などとトクトクと語る役人がいる。思わず腹の中で、お前がお茶を出したら、ペット代金数千円払うよりいいじゃないか、と言いたくなる。そのペットボトルは資源再生に回るが、その費用は自治体の負担だ。
これって税金のムダ使いの自乗?

 銀行のデスクロージャーという事で、経営説明会が必ず開かれている。行ってみるとどこの銀行でも幹部が、ノーネクタイ、ワイシャツの袖まくりで壇上からご進講している。聞いている企業の社長さんたちは、律義に背広にネクタイで汗を拭いている。
 冷房温度をぐっと下げている自分のところの会場ならまだしも、冷房の利いたホテルや会館を借り上げての説明会で、その格好はないだろう、と思うが、これってひがみ?
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by zo-shigaya | 2008-09-04 12:39

目の法悦

 岩波文庫の斎藤緑雨「かくれんぼ」を146%の拡大コピーで読む。誠に具合がよろしい。
 原文は改行の無い漢文口語体=江戸戯文体である。これを文庫本の活字の大きさで読むと途中でなにがなにやら判らなくなる。読みづらい印象が先に来る。
 それを拡大して区切りの朱を入れながら読むと実に良い文章であり、面白い、楽しい。一読して三嘆。

 岩波文庫にはワイド版があるが、そこまでしなくても、活字をもう少し大きくしてゆったり組んだ版型にすればよい。その点では文春文庫が一番読みやすい。新潮文庫も新版からは活字を大きくしている。
 たまたま書店で手に取った安岡章太郎の「質屋の女房」などは前版よりは格段に読みやすくなった。もっとも安岡章太郎の作品は小さい活字でもそれほど痛痒は感じないが、この斎藤緑雨の作品や、樋口一葉さんのものは組版の違いが理解と鑑賞に大きな影響を与える。
 ちなみに新潮文庫「にごりえ・たけくらべ」の平成15年改版本は実に好ましい組み具合になっていて、手に取って眺めているうちに、つい何度目かの「にごりえ」体験をしてしまう。

 ついでに触れておくが、集英社文庫にも「たけくらべ」がある。(1993年刊行)こちらは行間がもっとゆったりで、ルビもたっぷり振り、脚注付き、で初めて手に取る人たちに誠に親切な造りである。
 ただ、一読即解を狙うがあまりに、原文を適宜改行し、句読点を振り、さらに会話とおぼしきところはカギカッコを付けて、改行して表に出している部分もある。
 ここまですれば、一葉さんの文体ではなくなってしまう。

 例えば「たけくらべ」の(十三)で信如が大黒屋の前で下駄の鼻緒を切らしているところを美登里さんが庭から物陰に隠れて見ていて、手伝ってやりたいがこれまでの事もあり、ああどうしよう、という所を引いてみる。

 「・・・さまざまの思案尽して、格子の間より手にもつ裂れを物いわず投げ出せば、見ぬようにして知らず顔を信如のつくるに、
 「ええ、いつもの通りの心根」
と遣る瀬なき思いを眼に集めて、少し涙の恨み顔。
「何を憎んでそのように無情(つれなき)そぶりはみせらるる。言いたいことは此方にあるを、余りな人」
とこみ上げるほど思いに迫れど、母親の呼声しばしばなるを侘しく、詮方なさに一ト足二タ足、
「ええなんぞいの、未練くさい、思わく恥ずかし」
と身をかえして、かたかたと飛び石を伝いゆくに、・・・」(同書78〜79p)

 新潮文庫から同じ場所を引いて見る。ただし、「ええ」は旧仮名の字。このパソコンで出ない。

「・・・さまざまの思案尽くして、格子の間より手に持つ裂れを物いはず投げ出せば、見ぬように見て知らず顔を信如のつくるに、ええ例の通りの心根と遣る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涙の恨み顔、何を憎んでそのように無情そぶりは見せらるる、言ひたい事は此方にあるを、余りな人とこみ上るほど思ひに迫れど、母親の呼声しばしばなるを侘しく、詮方なさに一ト足二タ足ええ何ぞいの未練くさい、思わく恥ずかしと身をかへして、かたかたと飛び石を伝ひゆくに・・・」(同書118〜119p)

 地の文と登場人物の心の言葉とが渾然と溶け合ってつくられる文章の妙味だ。カギカッコで截然と切り出すとその旨味が消えてしまう。一言で言って、野暮な文章になってしまう。

 さて、話を戻して、森銑三が、文庫本の字の細かさが読書の楽しさを奪うことを述べている。江戸の文学作品を文庫本で印刷されると、本文の活字も小さいが、そこへ割註をはめ込まれると、そのまた半分の活字になる。そんなもので読ませられるのはご免だ、と書いていたが、後年、その本が岩波文庫になったのだから皮肉なものだ。(柴田宵曲との共著「書物」)

 カフカも自分の最初の著作を出版するに当り、その活字の大きさ、組み方について注文を出している。大きな活字で1ページあたり何十字にすべし、というものだったという。その希望は叶えられ、1913年にローヴォルト社から出版された。『観察』という本である。活字はテルツイアというもので十六ポイントの号数の古称だそうだ。
 吉田仙太郎氏が、そのカフカの原本に近い形の日本語版を高科書店から翻訳出版している。この話もそのなかの栞に吉田氏が書いてあるのを引用しているだけで、私はそのローヴォルト社本を眼にした事はない。
 カフカ自身はこの本について「・・・いささか過度に美しいし、私のまやかしものよりも、むしろモーセの十戒の石版にふさわしい・・・」という感想を書いているそうだ。(同栞より)
 その美しい本の多くは、ナチスの業火に焼かれたのだろう。

 明治の文章は蚤の頭のような字で印刷されたもので読んでは、どうも面白みが無い。
文学作品に限らず、例えば中江兆民先生の文章でも、また幸徳秋水の文でも、ゆったり組まれた形で読めることが望ましい。
 良書出版の鑑である岩波文庫が、さらに工夫して、読みやすさの点で文春文庫などに負けぬ版型になってほしいものだ。
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by zo-shigaya | 2007-12-09 12:33

吉本ばなな

07年6月29日(金)雨、久しぶりの雨。ほとんど終日降る。
 どこに行くあても無く、茫然としている。
 吉本ばなな『日々の考え』(リトル・モア2003年12月刊行)1,200円(ブックオフ                                    105円)
 この人の作品は最初の「キッチン」だけしか読んだことがない。そして「キッチン」が世に出てから昨年で20年という。う〜ん、あの頃、丁度ウイリアムが高校に入ったのかな。
 出てすぐの頃に新作の文芸小説なんかあまり読まない愛恋が、これは面白いよ、と褒めていたのを思い出す。
 知りあいのフランス人に、これ翻訳したら、と薦めていたようだが、彼女の好みには合わなかったようだ。たしかその時の感想では、フランス人には普通すぎる、というようなものだった。でも今では、吉本ばななほど海外での翻訳が多い作家はいないだろう。村上春樹以上じゃないのかな。韓国でもメキシコでもヨーロッパでも旧東欧諸国でも、共感を持って迎えられている(らしい)。
 
 これは雑誌連載の日々のエッセイ集。なかなかいい。見栄やはったりや取り澄ました虚栄が無い。頭の良いところや勉強の成果を強調しない。りきまない。押し付けない。
 下ネタにも平気で、ホラーが好きで、オカルトにもはまっていて、アニメおたく。
しかし、借り物の感性ではないところが、そこはかと無く好感を感じる。
 これは彼女自身の言葉を借りていうと、レオス・カラックスの映画を評して「やはり、監督が全部自分の言葉だけで、恥ずかしくても甘く見えてもアホでも、自分のイメージを語ろうとしているから好感が持てるのだろう。それはすごく勇気がいるのだろうなあ、と彼の身になってしんみりした。」p39 という感想と同じだろう。
いくつか引用させてもらおうか。
 食べ物について
 「私は食べるのが人一倍好きだ。美味しいものを好きな人たちと時間をかけてたべることはすばらしい。人生の最高の幸福のうちの一つだと思う。・・・でも食べることが一番の目的になったらそれは人ではない、動物だ。いやうちの犬や亀でさえ、食べる喜びは散歩と競っている様子なので、犬や亀に劣る存在になってしまう。」・・・「「一番したいことは?」と聞かれて「おいしいものを食べること」という答えを聞くと、私は、どうしてかげんなりしてしまう。他に遣るべきことがあるだろう!とどうしても思ってしまう」p86

「たまにつきあいで普段行かないたぐいの店に行くことがある。言い方は悪いけど、中途半端な値段で自分でもつくれるものを食べさせるちょっとおしゃれな店だ。そこでみんながおいしくもない油っこいものをがつがつ食べている様を見ると、どうしても浮かんでくるのは「家畜」という言葉だ。なんだか日本の社会がどうしょうもない状態なのを、安い食べ物を雰囲気でごまかしてふんだんに与えることで、ごまかされているような気がするのだ。どんな外国に行っても、こんな中途半端な店がたくさんあるところはない。」 p88

「せめて同じ千円出すなら、量ではなくて出す食べ物に誇りを持つ店に使おうよ〜。
同じ鞄を買うなら、自分のライフスタイルに合わせて買おうよ・・・
どこに持っていくの?その鞄を。
いつはくの、そのパーテイ用の靴を。
なんでワンルームに住んでいてシャネルのバッグ置いてあるの?
東京しか走らないのになんでまたそんなでっかいタイヤの4WDが必要なの?
コンピューターと携帯どんどん買い替えても出きることの大筋はどう違うのよ。
それはあなたの人生に必要な機能なの?
そのお金と時間はもったいなくないの?
もちろん好きに生きていいんだと思うけど、何が何だかさっぱりわからないだ・・・。
などと熱くなってしまうのは、やっぱり私がものすごくいやしんぼだからだろう。
いやしんぼにしかわらないこともある。」p91
 まっとうな、賢い娘だ。

 オカルト本について
「・・・ある日、急に頭の中がどうにかなってしまい、この世の仕組みがわかったような気持ちになることは私にもある。でも、それを本にしようとはやっぱり思わない。
それは「どういう人かまだよく知らない年上のエロいお姉さんへの恋心に燃え上がる童貞中学生男子の語る真実の愛」のようなものなのではないだろうか。
それほど切実だが信用できないものはない。」p94

 パンチパーマでジャージ、雪駄履きのリスキーなスタイルのリトルモア社長竹井さんについて
「私は下町の出身なので、ああいう外見でもちゃんとした人とそうでない人っていうのは何となくわかる。
 ああいう外見でちゃんとしている人っていうのは、日常の生活や趣味や収入を得る方法はいくらへだたっていても、果てしなくちゃんとしているのだ。
サラリーマンのほうがよっぽど下品な場合が多いのだ。」p115

 健康法は好きだけど・・・そしてココまで言うか、爆笑。
「(気功ってすごいと思うけど)今まで会った中国の気関係の人、みな、どことなくだが、エロいのだ。多分、パワーがあがると精力も増強され、おのずとギラギラてかてかひかってしまうのだろうけれど、多分その上の世界があるだろう?そうだろう?なあ、頼むよ、と私は思っていた。力を得ることの条件が性欲も炸裂というのでは、なんとなく、人間というものが空しい気がするんだけれど。・・・私はこれまでの人生、なるべくレイプされないように生きてきたつもりなのだが、非合意で穴に指を突っ込まれたのは、気功のおじさんだけである。体の調子がどれほどよくなろうと、私は合意でない人に穴を許したくないのだった。」p147

 後半はインタビューが収録されている。

その中で自分のスタンスについて
「例えば(私はそういう経験を一回もしたことが無いんで本当に"例えば”なんですけど)、よくみんな、結婚するというので、相手の田舎のお母さんとか、お父さんに挨拶に行くでしょう。
そうすると、もともと知りあいでもなんでもないのに、急に”お母さん”とか”お父さん”とか呼ぶ。よく考えてみれば、これってすごく変なことでしょう?
慣れてきて、そんな気がしてきたら呼べるかもしれないけど、いきなり今日からっていうのは、本当にわかんないですね。
相手の親のほうは、急に呼び捨てになっちゃったりとか。
それは、女性上位とかそういう話とは全然関係なく、まったく理解できない。
・・でも、たいだいそんなようなことで世に中が成り立っているというのは、よくわかるんですよ。
確かに成り立っているんだけど、『ちょっと変だと思いませんか』みたいなことはよく書いているような気がする。
そういうことを書くことで、みんなも本当はわかってないんだけど、『こういうもんなんだろう』と思ってやってることを、代わりに熱心に考えたんじゃないかなって」
  〜集団性、同質性への皮膚感覚的(本能的)な異和感。

 批評について
「批評を書く人は、小説なら小説を書いた人が何をしたかったのかをいうのを、まず把握してないといけないと思う。そえrもかなり正確に。それがわかっていないと、作品がどこまで到達してるかが批評できないから、あんまり意味がないような気がする」

 (インタビューアー「作家が目指したものを、きちんと測るということですね。)
「じゃないかと思います。自分の好みにかかわらず測り、測った後で何を言えるか、というのが批評だと思う。
まず正確に測ってもらわないと、書いたほうとしては、その作品をすごく好きだという批評を見ても、腹が立ちますね。
『全然わけのわからない角度から見てるな、これじゃ読者じゃないか』と思って。
読者は何を言ってもいいんですよ。作品は読者に属するものだから。
でも、批評家というのは、作品と読者の間に入ってる人だから、読者というだけだと困るな、ってよくプリプリ怒っています。」p200〜201

 亀が好き、犬が好き、猫が好き、家の中は動物園みたいだという。

 なんでかは分からないが左目がチカチカしてえぐい。風邪の症状か。
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by zo-shigaya | 2007-08-04 17:44