ワンダの日記
2012-04-06T11:49:31+09:00
zo-shigaya
ん、誰か呼んだ?
Excite Blog
磯田道史さん
http://zoshigaya.exblog.jp/18089559/
2012-04-06T12:03:43+09:00
2012-04-06T11:49:31+09:00
2012-04-06T11:49:31+09:00
zo-shigaya
読書メモ
「今の政府の統治力を疑問視しています。」「江戸の武士は、次第に既得権益の確保に走るようになりました。御用金も・・・殿さまの婚礼費用や御殿建設の場合もありました。古くなったいまの官僚組織は、私には江戸後期の武士にだぶります。消費税増税も休眠預金の話も、お上が使うお金を増やすという意味では同じです。婚礼用の御用金のように無駄な出費にしないか。我々はしっかりと意見していく必要があります。」
磯田さんが「古くなった官僚組織」と言い切るのは、江戸の組織を引き継いで営々と温存されてきた日本の官僚制度の問題点を、しっかりと踏まえた発言、と推察されます。
磯田さんは、「武士の家計簿」の中で、江戸幕府や藩政時代からの連綿たる流れを、少し、ちらりと、指摘していました。膨大な資料の裏付けを持っている磯田さんが、これについての論考をまとめていただければ、きっと面白い官僚論になるでしょう。ぜひ拝見したいものです。
蛇足になりますが、映画の「武士の家計簿」は、磯田さんの著書を原作にしていますが、著書とはまったく別物です。映画は冗長で退屈で、凡作です。こんなものだと思って本を敬遠している人がいたら、本当に残念です。
映画化されて損しているのが、「武士の家計簿」でしょう。
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電子書籍-2
http://zoshigaya.exblog.jp/14763180/
2011-01-17T14:46:39+09:00
2011-01-17T14:42:55+09:00
2011-01-17T14:42:55+09:00
zo-shigaya
未分類
これこれ、このような版本を、電子書籍にしてくれれば、いいのである。
江戸の黄表紙は、ほぼこの大きさであるから、ちょうどi-pad の大きさである。
これをページをめくりながら眺めることが出来たら、どんなに楽しいだろうか。
初めて見る人は、日本の文化の素晴らしさ、面白さに、驚嘆するであろう。
所蔵本のダウンロードの料金は、各美術館、所蔵者のお心のままでよい。鑑賞者は、日本国内だけではなく、世界中の美術愛好者であるから、かなりの収入になるのではないか。
何万人にダウンロードさせても、所蔵品に痛みはなく、人件費やらメンテナンスの出費もない。
ほとんどが個人の篤志によって成り立っている個人美術館にとって、些少ながら維持費の足しにはなるだろう。
愛好家にとっては、夢に描いていた眼福の、まさかの実現である。
今こそ、死蔵されている厖大な江戸版本が、私達の、共通な宝となる、そんな日が一日も早く実現されますよう、どなたか、音頭を取っていただけませんか。]]>
電子書籍
http://zoshigaya.exblog.jp/14636109/
2010-12-24T13:09:30+09:00
2010-12-24T13:06:20+09:00
2010-12-24T13:06:20+09:00
zo-shigaya
未分類
この使い勝手の良さで、日本語の本も読めたらどんなに素敵なことだろうか、と思う。
私の希望は、著作権などの問題でまだ解決がつかない現行の活字本ではなく、日本語の古典の原文を、電子書籍にしていただきたい、ということである。
例えば、「源氏物語」や「枕草子」といった原典である。紙の本としては影印本として数種刊行されているが、その原典をそのまま電子書籍にするのである。
あるいは、江戸時代の和書、版本をそのままである。中野三敏先生が「図書」にお書きになった文章によれば、江戸時代の版本のうち、活字になっているものは、数%(正確な数字は忘れてしまいましたが)だそうだ。コンマ数%であったかもしれない。私たちの文化遺産の大部分は死蔵されて、後世の人々の目に触れないままなのである。
つまり、現在の日本人は、明治以降に出版された活字本しか読んだことがない、というのが実態である。
それ以前の和書や写本に触れたことがある人は、きわめて少数である。
電子書籍という画期的な読書ツールが出来たのを機会に、ぜひ、和書、写本を電子書籍として閲覧可能なものにしてほしい。
そして、それは難しいことではない。実は、各図書館に架蔵されている和本は、以前から、「デジタル・コンテンツ」化されているのである。日本の大学図書館や国会図書館、公文書館などのホームページにアクセスすればかなりの文献がデジタル化されている。
それを電子書籍として、端末からアクセス可能な状態にすればいいだけである。
藤原定家さんが書写した古今和歌集や、江戸の大田南畝さんの戯作や、あの楽しい黄表紙本などが、ワンクリックでダウンロードして、このi-pad で読める、眺めることが出来るとしたら、なんと嬉しいことだろう。
たしかに「へんたい仮名」や崩し文字をすらすら読めるようになるには学習が必要だけれど、活字で読むことの味気無さが、本当に実感できるだろう。
私たちが培ってきた日本語の文化、というものが、今あらためて明らかになると思うのです。
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キャラバンは進む
http://zoshigaya.exblog.jp/13435588/
2010-06-10T10:56:00+09:00
2010-06-10T11:35:05+09:00
2010-06-10T10:56:07+09:00
zo-shigaya
未分類
「あれはたしか1950年か51年の春だったと思う、・・・2月の暖かい日であった。シチリアでは春の盛りであった、私はひじょうに年をとったある人と話をしていた。その人はモンゴル系の顔に黒いビロードのポルサリー丿をかぶり、アーモンドの花の香りに満ちた季節であるにもかかわらず厚い黒いケープをはおっていた。その老人はアンドレ・ジッドであった、2人は護岸に腰をおろし、揺れ動く青い炎のような古代の海を見おろしていた。
(・・・郵便配達人が手紙を手渡して行ったがその中に私への悪意をこめた批評文を同封したものがあった)
その批評について、また批評精神一般の不健全性について、私が文句を言うのを聞き終わると、フランスの大文豪は背を丸め、肩を落とし、まるで賢明な老いたる・・・禿鷹のように、と言っていいだろうか?・・・そんな顔つきで言った、「ま、いいじゃないか。アラブにこういう諺がある、覚えておくんだな。《犬は吠える、がキャラバンは進む》」
トルーマン・カポーテイ 『犬は吠える』(「ローカルカラー」所収)
メデア・ファシズムの嵐の中で精神の安定を得るためのおまじない。
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男もすなる○○を
http://zoshigaya.exblog.jp/11995646/
2009-09-24T11:03:47+09:00
2009-09-24T11:03:41+09:00
2009-09-24T11:03:41+09:00
zo-shigaya
未分類
女優の秋吉久美子が早稲田大学大学院で修士号を取得、20日学位授与式に出席。式後、記者に感想を聞かれて「大きな社会の本流を教わった。ふんどしを締め直して本業もしっかりやりたい」とうれしそうに語ったそうだ。(9月22日日経新聞コラム『窓』)
女相撲でもあるまいし、そんなセリフがあるかよ、という感じ。
記事には学位記を手にしている写真も付いているが、普通のスーツ姿だ。
ちなみに修士論文のテーマは神社仏閣と地域活性化についてまとめたものだそうだ。
これからは、男は、「腰巻きを巻き直して頑張ります」と言うか。]]>
自民党総裁選〜節約だけでいいのか
http://zoshigaya.exblog.jp/11982947/
2009-09-22T14:03:50+09:00
2009-09-22T14:03:44+09:00
2009-09-22T14:03:44+09:00
zo-shigaya
未分類
野党になったのだから節約は当然だろうし、それ以上に、衆議院選挙での空前の大敗を党員や支持者に詫びる、という意味もあるのだから、禊(みそぎ)選挙、懺悔行脚というべきものだ。
これまでの長期政権による奢りの反省や組織運営の抜本的な批判など、立ち入った内輪の事情、責任問題も、問われねばならない。
すべてを明らかにして再建の方向を全国の自民党支持者の方々へ提案する義務があるだろう。
そこから考えれば、現在のような選挙運動は不十分極まるものである。
街頭で一般の聴衆に演説して、なにほどの再建効果があるというのか。そこで聞いている聴衆のほとんどは、自民党総裁選挙の投票権など持っていないのだ。選挙権を持つのは、誰か。国会議員のほか、各県連の役員や地方議員たちである。数にして微々たる人々である。
不特定多数の聴衆への街頭演説会などをやるよりも、ブロックごとに投票権者たちを集めて、そこで候補者は一日かけて所信を述べ意見を聞き、討論をすべきなのである。そうすれば、これまでの、党大会や県連幹事長会議などでは聞けなかった地方の本当の意見が表に出て、自分たちの敗因がなんであるか、を骨身に染みて理解することが出来るはずだ。
「小泉改革が是か非か」、あるいは「大きな政府か小さな政府か」、などというマスコミが誂(あつら)えた議論の枠に収まることなく、なぜ自民党がここまで嫌われたか、という実態を、今こそ、肌身に滲みて感じとることが大事なのだ。
そのような集会を開いて、率直に議論をし、真摯に意見を交換すれば、ただちに判ることがあるはずだ。
つまり、かって自民党を支えてきた、良識と節度を保った日本社会の大人たちが影を潜め、声と態度の大きい、政治を自分の利権に奉仕させようという人々がそこに群がっている、とう事実にである。
自分たちは、このような人々の為に政治をしてきたのか、という深い慚愧の念にかられる事なくして、自民党の再生などない。
これからも、一部の人々の利益の先兵として党を運営するのか、それとも、本来の保守保全の党として日本国の為に働くのか、この事に思いをはせ、深く反省することなくして、総裁選は茶番であり、自民党再建は夢のまた夢だ。
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藤村の「夜明け前」
http://zoshigaya.exblog.jp/10766778/
2009-04-21T13:08:19+09:00
2009-04-21T13:08:19+09:00
2009-04-21T13:08:19+09:00
zo-shigaya
近時片々
○日本という国は宇宙船のような国だ。食糧や資源をすべて他の国から輸入して、閉鎖的な環境で豊かな社会を育んでいる。ヨーロッパから帰ってみるとその特殊さがきわだつ。
ヨーロッパでは、文化はカルチャーであって、その言葉の原義としての、大地に根差す耕作としての文化という前提がある。日本の現在の文化状況は、日本のどこに根ざしてているのか。どこからも切り離されたような状況なのではないか。
そのことの危うさについて考えようとしない社会。
○(近代日本の小説を1冊をあげるとすればなんですか、と問われて躊躇なく)
島崎藤村の「夜明け前」です。
なるほどな、と深くうなづく。
「夜明け前」についての書評を、少しあげる。
小林秀雄
「この小説に思想をみるというよりも、僕はむしろ気質を見ると言いたい。作者が長い文学的生涯の果てに自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦ってきた、また藤村自身も闘ってきたもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。この小説の静かな味わいはそこから生まれているのである。
注意すべきことは、作者が、この漠然とはしているが、絶対的な日本人の気質というものを熱烈に信じ、これを積極的に表現している点で、ここから、この小説のイデオロギイとか思想とかを僕らが云々する所以のものが生まれているというところだ。実際わが国の小説で、これほど日本的という観念を高い調子で表現したものはないのである。」
篠田一士
「「黒船」の人々の信仰をもたないわれわれにとって自然は文明を治(しろ)しめし、文明の原理をそこに仰ぐべきだと「夜明け前」の作者は言いたげである。この恒なる自然の目から見れば、想像的小宇宙も事実の世界もいかほどの径底があろうか、と彼は反問するだろう。「夜明け前」の発端はペリー来航の年で、終末の頃にはイギリス人の鉄道測量師が木曽路を調査している。この間に近代日本の出発点は定まった。そして、以来半世紀にわたってここには文明と名付けるべきものが築かれてきた。
「夜明け前」の作者はこの近代日本文明の成果に誇りをもち、そこに安堵感さえ味わっている。そして彼は、一方では、この文明の指導原理となった「黒船」の人々の思想を受け容れながら。他方では、これを当然拒むはずの思想をなおかつ、おのれの文明の根底に据えなければならない必然を倦むことなく語り続けている。
「夜明け前」は大変気味の悪い小説である。」
小林秀雄の指摘する日本人としての「気質」と、根底から相反する思想を、近代日本の文明の中の指導原理として抱え込まねばならなかった時代、そのことを執拗に問いかける作業から生まれた作品なのである。
この問いかけは、もはや終わったものだろうか。]]>
文士の魂
http://zoshigaya.exblog.jp/10419994/
2009-02-28T12:03:02+09:00
2009-02-28T12:04:11+09:00
2009-02-28T12:04:11+09:00
zo-shigaya
近時片々
僕にとっては、ヘンリー、ー・ミラーとの出会いの事に興味があるので、しばらく聞いていた。
彼女と出会ったのは、ミラーが70歳ころのことであるが、一緒に住んでみて驚いたのは、物が全然なかった、という。
ワードローブには、正装用の背広が一着と、あとは普段着の服が3,4着ぶらさがっていただけだったという。
家具も調度品もこれといったものはなくて、あの大作家が、と驚いたという。
ミラーの金銭感覚は第二次大戦の前で止まっていて、徳田さんが付けていた香水の値段を聞いて、驚いたという。何十ドル、というあたりが、高額、という感じだったらしい。
贅沢品などを身に付けるという気持ちもなく、「ホキ、君が僕にとって、一番のラクジュアリーだよ」と言ったという。
ヘンリー・ミラーの「南回帰線」は中学生の3年の3学期の春休み、つまり高校生になる直前の、私が最も影響を受けた本だ。おそらくその本の影響が、僕のその後の人生のなかの、男女のつきあいについて、最も大きく影響したといえる。
田舎の本屋に並んでいたものではなく、その春休みに東京神田の三省堂か東京堂か、で平積みされていたのを買った。
この本の影響の延長上に、W・ライヒの「セクシュアル・レボリューション」や「オルガスムの機能」があり、日本の68年ムーブメントへのコミットメントがある。
それはさておき、
徳田さんの話を聞いて、からだの底から湧きあがる感動がある。
天下無一物の存在として、自在闊達に動き回る、文士の魂の尊さ。
このごろ、絶えて聞かない。
それこそ、若い魂を惹きつける核心。
いい話を聞かせてもらった。
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食べ残し大国 09年1月17日
http://zoshigaya.exblog.jp/10206623/
2009-01-17T10:42:20+09:00
2009-01-17T10:42:37+09:00
2009-01-17T10:42:37+09:00
zo-shigaya
未分類
(なお、要旨のみを摘んで引用します。)
「食べ残し大国」日本 TKC発行「事務所通信」08年10月号掲載
全国のごみ総排出量は年間5,200万トンで、東京ドーム140杯分、一人一日当りのゴミの量は1kgを超える。これを処理するのにかかる費用は、日本全体で年間約1兆8,600億円。一人当たり約1万4,600円の税金が使われている。
平成18年度の統計で、ごみの総排出量の約64%が家庭のごみ(生活系ごみ)で3,316万トン。事業系ごみは1,581万トン。
その生活系ごみの約3分の1が食べ残しなどの生ゴミといわれる。
日本は、年間5,800万トンの食糧を輸入している一方で、約2,000万トンの食糧を捨てている。
(原文で2,000万トンとなっているが、3,316万トンの3分の1なら約1,100万トンではないか、と思うが、これには、事業系ごみの中の生ゴミを計上しているのかもしれない。不明なのでそのまま引用する)
食べ残しや手付かずのまま捨てられたものの価値は、年間約11兆円にのぼるという。
国民一人に供給される一日の食事の総カロリーと、実際に食べた分の差(ムダになったカロリー)は、昭和40年 256Kcal に対し、平成18年 659Kcal となる。
一時期よりは差が縮まっている(これまでのピークは平成7年の668Kcal )ものの、毎日ほぼ1食分のカロリーが捨てられている計算になる。
<引用終わり>
この数字を見ると、うわあ、「もったいない」なあ、と思う。家庭における食材のムダは、それこそ「もったいない」運動で工夫・節約しなければならない。
ゴミの処理も、新聞などでは、肥料に返していく運動なども取り組まれているのだが、それでも膨大な量となって、自治体の財政を圧迫している。
このムダを防ぐための提案も挙げられているが、そのなかで「賞味期限・消費期限にとらわれすぎない。(食中毒防止のために余裕をもって設定されている)色や臭い、形、感触、味などで判断してみる。」
とある。
ただ、これらの表示を義務付けている現行の「食品衛生法」の抜け穴、不備については、ここ2,3年、さまざまに指摘されて、昨年の1月には総理大臣が消費者庁を設置して整備する、と言明したが、その方はあえなく9月には退任。その後どうなっているものやら。
いかに現行の「食品衛生法」が消費者の立場に立っていないか、という問題点の指摘は、また日を改めて。
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レジ袋は環境に負荷を与えるのか 09年1月7日
http://zoshigaya.exblog.jp/10161007/
2009-01-07T18:18:00+09:00
2009-01-08T13:49:38+09:00
2009-01-08T13:38:15+09:00
zo-shigaya
未分類
スーパーでレジ袋を有料、という動きがある。行政もそれを推奨するところもある。しかし、本当にレジ袋は環境に負荷を与えるのか、私たちに示されている数字の根拠を知りたいと思っていたら、たまたま、下記の記事を見た。
ここで引用させて戴く。
「レジ袋有料化に一言」
高階玲子(ジャーナリスト、元TBSアナウンサー、ロンドン在住)
(掲載誌は「専門店」08年4月号)
「・・・レジ袋の有料化が、イギリスでも議論の的となっている。例えば、大手スーパーのM&S(マークス・アンド・スペンサー)では5月から一枚5ペンス(10円ちょっと)になる。
有料化の理由は、無料だと消費者は際限なく使ってムダにするから、有料にして抑止力とすることだそうだ。その他に、・・・「レジ袋は環境に悪い」、「街が汚れる」、「魚が食べて死ぬ、鳥の足に絡まる」などが挙がっている。」
では本当にレジ袋は環境に悪いのか、著者は以下の数字を挙げる。
「レジ袋は、紙の袋に比べて、生産段階で、エネルギー消費量は40%、水使用量は80%、廃棄物は90%少なく、廃棄処分にする際の焼却段階でのCО2排出量も72%少ないという。
1年間に大人一人が消費するレジ袋のCO2排出量は、車が百メートル走る時に出る量と同じ、つまり、そのくらい少ないそうだ。
この程度の「環境への負荷」は、ヒトが社会生活を継続する上で、許容範囲だろう。レジ袋は消費財としては、けっこう優等生のほうではないだろうか。」
さて、有料化によってレジ袋を買う人は減るだろうが、その反面、
「・・・エコバッグ・・として生産されたバッグ類の多さに、レジ袋が使えないので、あらたに買ったゴミ袋などがプラスされて、プラスチック使用量が五倍以上に上がってしまったという事実が、レジ袋有料義務化を導入したアイルランドで実証されている。」
その他の、レジ袋が散らかる、とか動物が被害に遭うなどの理由は、使う人間のモラル、しつけの問題で、レジ袋が悪いわけではない、と著者は言う。
そして「有料化は確実に値上げである。この物価高のイギリスで、また値上げ、また消費者負担!」
「M&Sは、有料化による利益はチャリテイに寄付するというが、これはチャリテイの強要で、私は寄付するなら、寄付先も金額も自分で決めたい。スーパーの「エコ・イメージ」作りに踊らされたくない。」
別のスーパー「テスコ」では、分解できるプラスチック製のレジ袋を採用して、無料である。袋を持参するとポイントが付くサービスもしている。生活防衛の為には、
「M&Sに行く時は、まだ有料化を決めていないテスコのレジ袋を持って行く」
これは「半分冗談、半分本気」だが、
「レジ袋は、消費者が不要なら断り、最大限大事に使い、正規に処分しさえすれば、有料化の正当性など、ない」
と締めくくっている。
この著者のおっしゃることに同感である。
東京では、表参道の「ナチュラル・ハウス」がいち早くレジ袋を有料化している。
この間、長い改築期間が終わって、やっと元の場所に帰ってきた、お隣の「紀ノ国屋」は、まだレジ袋は無料だ。(と思う。この頃行ってないが)
「紀ノ国屋」は買い物袋持参をお願いしていて、レジ袋を断ると「エコ・スタンプ」を押してくれる。
「ナチュラル・ハウス」の有料化は、「エコ・イメージ」作りで差別化しようという店舗戦略が優先しているのかもしれない。]]>
誰もいわない 08年9月4日
http://zoshigaya.exblog.jp/9430875/
2008-09-04T12:39:00+09:00
2009-01-17T10:44:56+09:00
2008-09-04T12:39:58+09:00
zo-shigaya
未分類
家電は使用回数が少なくなったとは言え、ネット通信を利用していればその使用料でおそらく5,6千円、さらに親それぞれにケイタイがあるのだから、通信費だけで1世帯どれくらいの出費になるのだろう。2万か、3万か。以前であれば発生しなかった経費だ。
なるほどケータイ貧乏。
お茶屋さんと話をしたら、お茶なんてさっぱり売れません、という。そもそも急須を持っている家庭が少なくなりました、という。ほとんどがペットのお茶。小さな子たちのご飯の時も、急須から注いだお茶よりもペットのお茶をテーブルに置いている家庭が多い。キャップを取ってすぐ、お茶、って便利かな。でも、急須から注げば一杯3円くらいのお茶が、ペットとなれば百円以上する。
家計の負担が、こんな形で増えているのが、格差の原因?
このごろの市役所や官庁の会議では、テーブルの上に水やお茶のペットを置いている。お茶汲みは女性差別ですからやめました、などとトクトクと語る役人がいる。思わず腹の中で、お前がお茶を出したら、ペット代金数千円払うよりいいじゃないか、と言いたくなる。そのペットボトルは資源再生に回るが、その費用は自治体の負担だ。
これって税金のムダ使いの自乗?
銀行のデスクロージャーという事で、経営説明会が必ず開かれている。行ってみるとどこの銀行でも幹部が、ノーネクタイ、ワイシャツの袖まくりで壇上からご進講している。聞いている企業の社長さんたちは、律義に背広にネクタイで汗を拭いている。
冷房温度をぐっと下げている自分のところの会場ならまだしも、冷房の利いたホテルや会館を借り上げての説明会で、その格好はないだろう、と思うが、これってひがみ?
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目の法悦
http://zoshigaya.exblog.jp/7802495/
2007-12-09T12:33:39+09:00
2007-12-09T12:33:39+09:00
2007-12-09T12:33:39+09:00
zo-shigaya
未分類
原文は改行の無い漢文口語体=江戸戯文体である。これを文庫本の活字の大きさで読むと途中でなにがなにやら判らなくなる。読みづらい印象が先に来る。
それを拡大して区切りの朱を入れながら読むと実に良い文章であり、面白い、楽しい。一読して三嘆。
岩波文庫にはワイド版があるが、そこまでしなくても、活字をもう少し大きくしてゆったり組んだ版型にすればよい。その点では文春文庫が一番読みやすい。新潮文庫も新版からは活字を大きくしている。
たまたま書店で手に取った安岡章太郎の「質屋の女房」などは前版よりは格段に読みやすくなった。もっとも安岡章太郎の作品は小さい活字でもそれほど痛痒は感じないが、この斎藤緑雨の作品や、樋口一葉さんのものは組版の違いが理解と鑑賞に大きな影響を与える。
ちなみに新潮文庫「にごりえ・たけくらべ」の平成15年改版本は実に好ましい組み具合になっていて、手に取って眺めているうちに、つい何度目かの「にごりえ」体験をしてしまう。
ついでに触れておくが、集英社文庫にも「たけくらべ」がある。(1993年刊行)こちらは行間がもっとゆったりで、ルビもたっぷり振り、脚注付き、で初めて手に取る人たちに誠に親切な造りである。
ただ、一読即解を狙うがあまりに、原文を適宜改行し、句読点を振り、さらに会話とおぼしきところはカギカッコを付けて、改行して表に出している部分もある。
ここまですれば、一葉さんの文体ではなくなってしまう。
例えば「たけくらべ」の(十三)で信如が大黒屋の前で下駄の鼻緒を切らしているところを美登里さんが庭から物陰に隠れて見ていて、手伝ってやりたいがこれまでの事もあり、ああどうしよう、という所を引いてみる。
「・・・さまざまの思案尽して、格子の間より手にもつ裂れを物いわず投げ出せば、見ぬようにして知らず顔を信如のつくるに、
「ええ、いつもの通りの心根」
と遣る瀬なき思いを眼に集めて、少し涙の恨み顔。
「何を憎んでそのように無情(つれなき)そぶりはみせらるる。言いたいことは此方にあるを、余りな人」
とこみ上げるほど思いに迫れど、母親の呼声しばしばなるを侘しく、詮方なさに一ト足二タ足、
「ええなんぞいの、未練くさい、思わく恥ずかし」
と身をかえして、かたかたと飛び石を伝いゆくに、・・・」(同書78〜79p)
新潮文庫から同じ場所を引いて見る。ただし、「ええ」は旧仮名の字。このパソコンで出ない。
「・・・さまざまの思案尽くして、格子の間より手に持つ裂れを物いはず投げ出せば、見ぬように見て知らず顔を信如のつくるに、ええ例の通りの心根と遣る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涙の恨み顔、何を憎んでそのように無情そぶりは見せらるる、言ひたい事は此方にあるを、余りな人とこみ上るほど思ひに迫れど、母親の呼声しばしばなるを侘しく、詮方なさに一ト足二タ足ええ何ぞいの未練くさい、思わく恥ずかしと身をかへして、かたかたと飛び石を伝ひゆくに・・・」(同書118〜119p)
地の文と登場人物の心の言葉とが渾然と溶け合ってつくられる文章の妙味だ。カギカッコで截然と切り出すとその旨味が消えてしまう。一言で言って、野暮な文章になってしまう。
さて、話を戻して、森銑三が、文庫本の字の細かさが読書の楽しさを奪うことを述べている。江戸の文学作品を文庫本で印刷されると、本文の活字も小さいが、そこへ割註をはめ込まれると、そのまた半分の活字になる。そんなもので読ませられるのはご免だ、と書いていたが、後年、その本が岩波文庫になったのだから皮肉なものだ。(柴田宵曲との共著「書物」)
カフカも自分の最初の著作を出版するに当り、その活字の大きさ、組み方について注文を出している。大きな活字で1ページあたり何十字にすべし、というものだったという。その希望は叶えられ、1913年にローヴォルト社から出版された。『観察』という本である。活字はテルツイアというもので十六ポイントの号数の古称だそうだ。
吉田仙太郎氏が、そのカフカの原本に近い形の日本語版を高科書店から翻訳出版している。この話もそのなかの栞に吉田氏が書いてあるのを引用しているだけで、私はそのローヴォルト社本を眼にした事はない。
カフカ自身はこの本について「・・・いささか過度に美しいし、私のまやかしものよりも、むしろモーセの十戒の石版にふさわしい・・・」という感想を書いているそうだ。(同栞より)
その美しい本の多くは、ナチスの業火に焼かれたのだろう。
明治の文章は蚤の頭のような字で印刷されたもので読んでは、どうも面白みが無い。
文学作品に限らず、例えば中江兆民先生の文章でも、また幸徳秋水の文でも、ゆったり組まれた形で読めることが望ましい。
良書出版の鑑である岩波文庫が、さらに工夫して、読みやすさの点で文春文庫などに負けぬ版型になってほしいものだ。
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小沢一郎氏に望むこと
http://zoshigaya.exblog.jp/7702094/
2007-11-13T16:42:02+09:00
2007-11-13T16:42:02+09:00
2007-11-13T16:42:02+09:00
zo-shigaya
近時片々
民主党の小沢党首が辞意撤回をして続投をすることにしたのは日本の政党政治にとって嘉すべきことだ。
メデアは喧しく裏の事情をさぐっている。裏にはいろいろな経緯があるのだろう。その事の真相はいずれ明らかになるとして、それ自体、大した問題ではない。
また政策協議も悪いことではない。法案の内容についての歩み寄りや擦りあわせは、どこの政党同士であってもやって悪いことではない。必要なら、自民党と共産党が政策協議をしても不思議ではないし、多いにやったらいい。それが議会政治だ。
問題は、小沢党首が、なぜ、一気に「連立政権」に進む「気分」になってしまったのか、ということだ。
小沢氏は11月4日の辞意表明会見では「民主党はいまださまざまな面で力量が不足しており、国民からも「自民党はダメだが、民主党も本当に政権担当能力があるのか」と疑問が提起され続け、次期総選挙の勝利は大変厳しい情勢になると考えている。」と述べていた。
11月7日の辞任撤回の会見の中でも、衆議院の勝利については楽観してはいられない、小選挙区で前回の三倍の議席を勝つことが絶対条件だ、この厳しい現実を直視しないで、参院選勝利の「勢いだけで勝てるほど甘くない」と述べている。
この強い不安が、小沢氏をして、今回の「連立」の話に飛び付かせたものだろう。この厳しい選挙情勢の手応えと確信は、どこから生まれたかといえば、ここ1ヶ月くらいの小沢氏の動静を報じる新聞記事から推察するに、恐らく地方回りをした感触から生まれたのだろう。
小沢氏が地方回りをして会っているのは、新聞の記事で見れば、ほとんど「連合」の幹部たちだ。彼らからどんな分析が出たか、詳しく報告されたものはないが、おおよそ内容は推測がつく。
いわく〃民主党の組織は弱体だ、党員数も少ない、地方議員も少ない、足腰が弱い、選挙の時は連合頼みだ、議員や候補者の活動が見えてこない、エトセトラ、エトセトラ 〃
これが小沢氏をして、次の選挙では民主党はまだ勝てない、という悲観的気分に落し入れた、と私は見る。そしてこの分析に依存していることが、小沢氏のアキレス腱なのだ。「連合」依存意識が不安の源泉である。
「連合」はたしかに民主党の最大の支援組織ではあろう。しかし、一歩地域と現場に足を踏み込んで、現在の日本社会の中での機能を眺めてみればよい。現在の「連合」は企業内組織であってそれ以上のものではない。市民社会の中にネットワークを持っている組織ではない。
地方の「連合」の幹部諸君が、どの程度、地域のムードを読めているのか。
彼らは地域全体の民意を示すバロメーターでもなければ、十分な民意のセンサーでもない。フリーター、派遣社員の大量出現という社会問題に対しての関わりを見れば、その事は歴然たる事実だ。
その組織の幹部を回って歩いた感触で、今現在、日本の社会に流れる「空気」を判断しようとしたところに、小沢氏の致命的な誤りがあった。
これで不安になり、焦りにかられて、一気に急襲して天下を取るしか術は無し、という気持ちになって「大連立」という甘言に乗せられた。
小沢氏は、この時点で残念ながら「KY」であった。空気が読めていない、情勢分析の対象が間違っているのだ。
ここで苛立たないで、「連合」の分析が当たっているのかどうか、を別のセンサーから分析すれば良かったのだ。それは他でもない、全国で「朝立ち、夕立ち」している自党の議員、候補者からの情勢報告である。
そうすれば、民意は「連合」の分析とは違う形をしていることが見えてきたに違いない。ましてや読売新聞の論説のようなわけでもない、と言うことが。
その輝かしい政治歴から小沢氏には「勇将のもとに、弱卒ばかり」という、すこしひがんだ感情があるのではないか。今回の辞意撤回を機に、そんなケチな思いは男らしく棄てて、天下堂々、自ら率いる民主党の同志に五尺の赤き肉塊すべてを委ねる、という捨て身の心境になられることを、期待するものだ。
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小沢一郎 迷走 11月5日
http://zoshigaya.exblog.jp/7669165/
2007-11-05T18:52:35+09:00
2007-11-05T18:48:34+09:00
2007-11-05T18:48:34+09:00
zo-shigaya
近時片々
ふう〜ん、なるほど、と思う気持もあるが、これってどこかで聞いたセリフだなあ。そうだ、細川政権が潰れた後で、自民党が旧・社会党を引っ張りこもうとした時、連立を受諾した社会党の側の理屈ではなかったか。
あの時は自民党が社会党にすり寄ったもので、決して自民党の軍門に下ったのではない、社会党としては、それまでの万年野党、なんでも反対の無策政党、という汚名をばん回し、政権運営の能力と実績を国民に示して、悲願の社会主義政権への道を拓くべく千載一遇のチャンスに乗ったのだ。で、その結果は自民党に丸呑みにされて哀れな最期を遂げてしまった。
自民党と連立を組んで生きながらえているのは公明党だけで後はすべて綺麗に消化されている。
そのことをまさか小沢一郎たるものが、忘れるわけがない。仮に彼が首班の連立であっても、恐らく民主党も解党されてしまうことは確実だ。旧・社会党は村山富市を総理にしたのにもかかわらず消えてしまったのだから。
それにもかかわらず、福田康夫とこうまで話があってしまう、というのは何なのだろう?
外交政策で一致した、という事だけではなく、小沢一郎にとっては、福田康夫という人間はなんの抵抗感も違和感も感じさせない人なのだろう。そりゃそうだ、安部普三とでは世代間ギャップがありすぎる。麻生太郎とでは喧嘩になる。その点、福田康夫という72歳の宰相は、悪くない、と思ったのかな。
ちょうど社会党が、相手の自民党の総裁は良識派の河野洋平だし、あんまり悪い事にはなるめえ、と思ったように、ね。
「自民党崩壊」のところで、最高指揮官が勝手に敵将と会談されたら前線の兵隊はどうなるのだ、と書いたが、小沢一郎の行動も同じこと。連日、次の衆議院選挙に向けて、党首の「政権交代」の大号令のもと、孜々として活動している全国の民主党員の活動をどう考えているのか。大連立の場合、昔の中選挙区ではなく、小選挙区制度の下で、自民と民主の議席をどう調整していくつもりなのか。
たまったもんじゃない。
こうなれば、民主党としては、ただ一人の人にすがるしかなかろう。
それは、江田五月だ。
彼を参議院議長から党首に転身させて起死回生を図ることが、最善の策だ、というのは団塊世代の世迷言かね。]]>
自民党崩壊 11月3日
http://zoshigaya.exblog.jp/7659420/
2007-11-03T12:19:00+09:00
2007-11-03T12:20:24+09:00
2007-11-03T12:19:23+09:00
zo-shigaya
近時片々
自民党総裁であり内閣総理大臣という最高権力者の福田康夫氏は11月2日、民主党の小沢一郎党首に党首会談を呼びかけ、「大連立を打診」(毎日新聞11月3日1面見出し)したという。小沢党首は即答を避け党役員会に持ち帰り協議したが全員反対ということで「受諾できない」と伝えた、とある。
もしも、小沢党首と民主党の役員会が連立を受諾した場合、福田総理は「小沢首班の内閣」も容認したのだろうか。
最低でも小沢副総理だろうし、大臣の半分は民主党から出ることになるだろう。そうなれば、これは連立というより「政権交代」ということではないか。
そもそも自民党ではこの提案をするにあたって役員会みたいな場所で決を取ったのだろうか。数日前の第一回会談を申し込んだ時に、誰やらが「連立構想などの持ちかけ反対」の釘を差した、とかいう記事が出ていたが、おそらく全党一致の提案ではなかろう。
最高指揮官が真っ先に白旗を掲げたのを見せられて、前線の兵士がどのような思いでいるのだろうか。無血開城、敵前逃亡、など、政治家は軍人ではないけれど、この責任追及は免れないだろう。
それとも自民党という組織はリーダーの指導責任などは期待していない人たちの集団だろうか。
かくて自民党は、品の悪い表現で申し訳無いが、「馬糞の川流れ」状態になってしまった。]]>
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