ん、誰か呼んだ?


by zo-shigaya

風立ちぬ

8月18日(水)
 8月16日になったらめっきり涼しくなった。日は照っても風が涼しい。さわさわとした秋の風情の風だ。こうなると、毎年のことながら「風立ちぬ、いざ生きめやも」というせりふが口を突いて出て、堀辰雄を思い出す。といっても彼の作品を好きという訳ではない。
 ゛堀辰雄は本所の小梅に育った下町っ子で、夭折の詩人と思われるが、実際は50歳まで生きている。青少年時代から芥川竜之介に傾倒し、直接可愛がられ、文学的影響を受けている。彼の作品はフランス文学の色の濃い、プルーストやラデイゲのような小説を書いている、”という岩波文庫の河上徹太郎の解説を眺めているうちに、思いついて書庫の井伏鱒二の全集を探してみたら、堀辰雄が死んだとき飲み屋でたまたま一緒になった客に、しつこく堀辰雄のことを聞かれて、不快な思いをした事を書いているエッセイを見つけた。

 「堀君のお葬式がすんでから三四日後に、荻窪駅前マーケット街の飲屋で見知らぬ客が私に話しかけた。堀辰雄は将棋が何級ぐらゐであったかと、しつこくきくのである。何級ぐらゐか知らないと答えても、大体のところ何級ぐらゐか、それを云ったって一文の損でもないだろうと嫌やなことを云ふ。相手も酔っていたが、こちらは徹夜をして夜と昼をとりちがえたのを軌道に乗せるため、昼間を眠らないで夕方から飲んでゐた。こんなとき嫌やなことを云われると冷静でゐられない。「存じませんですなあ。それを知る機会が、つい御座いませんでしたからなあ」とお行儀の悪い返辞をした。
 相手は暫く黙ってゐたが、今度は堀辰雄は小説家として譬へば官吏か軍人に見立てたら、どのくらゐの級であったかと訊問するやうな口をきいた。将官か佐官か尉官かと云った。そんなことは知らないと答へると、云ったって一文の損にもならないだろうと変にからんで来て、私に盃を差そうとした。たうとう私は理性を失って、堀君は昔の軍人なら蒲生氏郷だと云った。つづいてまた、堀君は軍人ではない、ばかなことを云ったものだと、大きな声で云った。むしゃくしゃさせてくれるなと云った。云ったあとで胸がさっぱりした。相手も別に悪気があったのではないらしい。私にパチンコが好きか釣堀が好きかと話しかけ、あとはもう引っかかりのないような話をした。(中略)さうだ、生前の堀君もこんな手合は特に苦手であったらう。しかし堀君の聡明は、こんな手合に触れないですむような大道を彼に選ばせた。殆ど完全にそれが出来たらう。ひるがえって私自身、もはやこれはーー云ったって無駄な話だが、よほど以前に一種の会が結成された頃、堀君が、お前さんはそんな会に出席するものではないと注意してくれたことがある。堀君はいろんな意味で大人であった。(後略)」                  『堀辰雄と将棋の香車』(自選全集第8巻285〜6p)

 堀辰雄が亡くなったのは昭和28年(1953年)、井伏鱒二55歳の時だった。
 堀辰雄が生まれたのは明治37年、そして場所は本所小梅というから、おそらく今の墨田区向島のあたり、小梅小学校というのがいまでもあるから、その辺だとすれば、三囲神社があり、隅田川のそばで言問橋があり、川向こうに浅草の待乳山の聖天さんがある。言問橋が架けられたのが昭和3年(1928年)だそうで、それまではいわゆる「竹屋の渡し」が三囲神社の鳥居前から山谷堀、待乳山下までを結んでいた。
 この渡しは本来は、「待乳の渡し」であったそうですが、
”その昔、三囲神社門前の茶屋「都鳥(みやこどり)」にお美代という女将がいて、対岸の船宿「竹屋」の舟を呼ぶ時に「お〜い、たけや〜」と得意の美声で呼んでいたものが評判となって、その名がついたといわれています。たいへん趣のある渡船で墨堤の花見や向島散策の際によく利用されていました。”(墨田区案内)
 
 やっぱり「江戸」なんだな。ヴァレリーやプルーストをあそこまで受容する感性は。

 井伏鱒二と堀辰雄は昭和初期からの同人雑誌仲間であった。(昭和5年(1930年)『作品』の同人)この雑誌の同人には他に、小林秀雄、河上徹太郎、永井龍男、今日出海、三好達治、中島健蔵、佐藤正彰、深田久弥、中村正常など、がいる。(「半生記」井伏鱒二自選全集第7巻396P)
 井伏鱒二の全集を開いたついでに、これをもとにした映画が良く出来ている「本日休診」を読み、その後の「丑寅爺さん」を読み、「多甚古村」を読んだ。(同全集第3巻所収)卓抜した描写力を持ち、なんの衒いもなく、淡々とした言い回しで書き上げる妙手である。あらためて感心する。
 私の「風たちぬ」は、かくて「多甚古村」にて「いざ生きめやも」と決意することで終わった。なかなか趣のある一日であった。
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by zo-shigaya | 2004-08-19 14:05