ん、誰か呼んだ?


by zo-shigaya

線形な私 〜シェーン・カムバック〜

 今を去る4ヶ月以上前、時事問題に対して行なった予想の、ものの見事にはずれた事に深甚なるショックを受け、ブログの更新はおろか精神のバランスさえ失いがちな日々を過ごしてきた。
 人間はだれしも将来に対する漠然たる、あるいは決然たる予測をもって生きている。踏み出す先の地面が凸凹か滑らかか、までは判らなくとも、ともかく地面が続くという確信、予想のもとで生きている。それを一気に突き崩す最大の衝撃は地震という天災であるが、9月11日の衆議院選挙の結果はそれと同じ位の衝撃を与えてくれた。踏み出した先には、黒々とした深淵が口を開けていた。なまじごく内輪のブログという場での予想にすぎないが、逆にそれ故にか、書いてしまった事への責任がある。
 誰も責任を取れ、とは言わないけれど、(言われても取りようがないが)自分の知的な部分に対する誇大な自信があるものだから、それへの信用の失墜は耐え難いわけだ。
 基本的に真面目なのだ、ワシは。諸君ら同様に。

 なぜこのような結果が起きたのだろうか。それ以来、寝ても醒めてもその原因を考えて来たが判らなかった。小選挙区制では小さな投票行動の変化が大きな変化を生む、という制度のカラクリに結論付けるだけではすまないような気持が残る。
 政治の結果について原因の特定は不可能なのだろうか、「原因=結果」をつなぐ輪にはなにか不可知な函数が入るのだろうか。そんなところにまで考えを広げていくと、ナチスの脅威からブラジルに亡命し絶望のうちに自裁したシュテファン・ツヴァイクの心境が思いやられてとめどもなく憂欝になった。危ないところだ。

 こんにちに至っても、その「腑に落ちなさ」の感情は同じであるが、年末に05年2月の内田樹氏のブログをプリントしておいた紙片を見つけて読みかえしているうち、やっと精神のバランスが回復された。そこにはこうある。

 「私たちは『原因と結果』ということを簡単に口にするけれど、『原因』ということばは『とりあえず原因が判らない場合』にしか使われない。このことに気づいている人は少ない。」(内田樹ブログ2005年2月17日「原因」という物語)
 
 このブログは05年2月に起きた「教職員殺傷事件」の報道に見られる“なんでこんな事件が起きたんだ、学校の管理責任はどうなっているんだ”という「悪いのは誰だ?」という問いの形式で報道する姿勢、「他罰的枠組みによる報道姿勢」への批判として書かれたものである。

 内田氏は言う。
 「「悪いのは誰だ?」という問いが有効な場面は、人々が信じているよりもはるかに少ない。」何故ならば「そのような問いが有効なのは、「線形方程式」で記述できる状況、つまり入力に対して出力が相関する「単純系」においてだけだからである。現実には、人間の世界のほとんどの場面は、わずかな入力の変化が劇的な出力変化をもたらす「複雑系」である。出力(=結果)が劇的なカタストロフであることは、結果と同規模の劇的な入力(=原因)があったことを意味しない。「蟻の一穴から堤防が崩れる」これはプリゴジーヌのいう「バタフライ効果」と同じ意味のことである。」(同上)

 まさにその通りだ。そうだったのだ。俺は知らぬまに線形方程式のとりこになっていたのだ。このことに深く納得する。プリゴジーヌについてはリーアン・アイスラーの『聖杯と剣』においても、立論の重要な理論的支柱として引用されていたし、解説書も読んだことがある。それでいて今回のような事態に対して、持ち出せない、思いだせない、情けない。

 言うならば、気が付かないうちに「歴史の進歩史観」にはめられていたのだ。
 努力したものは報われる、正義は最後に勝つ、正直者は得をする、寝ていて人を起こすな、というのは道徳律であって、因果律ではない。
 可能な限りの変化を予想し、出てくる結果に素直に従いながら、どこで次のバタフライが羽根を開くのか、どのような形でそのエネルギーが廻ってくるのか、開いた眼で見届けていなくてはならない。眼を閉じてお念仏を唱えるのはまだ早い。
 昨年の事態において確認しておくべきことは、これだけの大きな政治変化(政界変化か)を生むにあたって使われた入力エネルギーは、出力に比べればきわめて小さいものであった、という事実だけだ。
 そして、これに加えて、所詮、世の中、どっちへ転ぶか分かったもんじゃねえや、という覚悟である。
 これが一番、重要な事なのだ。
 つまり、ブリゴジーンのカオスの理論は、小さな変化が大きな変化を生む仕組みを示しているが、その動きが必ずしも、アイスラーの、あるいは私の希望する方向に動くとは限らない、という事実、これを認めない限りは、どこまで行っても「科学的と僭称する歴史的決定論」から足抜けできないことになる。
 自然科学の法則論は無情、無機質、無方向なのだ。いわば限定された「空間」での法則である。それを社会法則に適用しようとするときには、その空間に「時間」軸を持ち込むことになる。「空間」に「時間」を混入させることは、科学の視座から別の視座に移ることになる。
 今、初めてそのことを実感した。今日まで生きていてよかった。学問をしていてよかった。

 内田氏いわく「私たちの社会で起きるさまざまな事件のほとんどすべては複数のファクターの総合的な効果であり、「単一の原因」に還元できるような出来事はまず存在しない。」

 無数の複合した原因がある、その事を素直に、敬虔に、驚きをもって受けとめねばならないのだ。自分には思いも由らなかった原因があったんだ、それも沢山、と。
 結果についてがっくりするのは、今回はまあ当然な事情があるとしても、それを差し引いて、もう少し突き詰めてこの落ち込みを考えると、人生ってさまざまな事が起きるんだ、という覚悟が薄くなっている、どうかすると無くしてしまったのではないか。その覚悟の無さが、落ち込みの真因であるようだ。

「この天地には我々の哲学に思い及ばないものが多々有るだ、のう、ホレーショ」(シェークスピア「ハムレット」)

 おいらはすっかりヤキがまわってしまったぜ、おい。
 これがすべてを言い尽くしている。

(この項は、続きます。)
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by zo-shigaya | 2006-01-24 14:53