ん、誰か呼んだ?


by zo-shigaya

二川相近のこと

 少し前にリクエスト復刊された岩波文庫に『草徑集』というのがある。大隈言道の歌集である。その解説をながめていたら、

 「花よりあくるみよし野の 春のあけぼの見せたらば、
  から国人もこま人も やまとごころになりぬべし」

という今様の歌を載せている。
 この歌は「宮城道雄小曲集」に載っていて、私は地歌三絃で習った。お師匠さまの、きれいな声で歌うのを聞いていると、茫洋駘蕩としてくるめでたい歌である。このような大和心ならば、世界中の人々が異議なく同調するであろう。美吉野という場所がどこであるか、実景として特定されなくてもこの雰囲気は良くわかる。
 「君が代」に替わる国歌として、私はこの歌を推賞したいとかねがね思っている。
 あら懐かしや、と見ると、文庫の解説には「この歌が明治の末頃まで、頼山陽の作とされていたが、実は(大隈言道の師匠の)二川相近(ふたがわすけちか)が作者である」と書いてある。
 ゛二川相近は福岡藩士で筑前の人。亀井南溟の門人である。十歳にして詩を作り文を綴った。天才といわれた。書は非常に巧みで二川流と世に称せられた。極めて趣味豊かな人で歌と書にすぐれているうえに今様の近世並ぶものなき大家である。天保七年九月二十七日に年七十で卒した〃とある。
 ネットで「二川相近」を検索してみると、さすが電脳社会だ、たちどころに次のような事が知れた。

  二川相近(ふたかわ・すけちか、1764−1836)江戸時代の後期、福岡の城下の 
  著名な書道家。家は代々の藩の料理方で、父親が 亀井南冥に親しかったことか 
  ら入門を勧められ、家職転業し16歳から書道の道に精進。28歳で藩主より転業 
  を認められて『執筆法』なる書物を著し、書道に二川流を開いた。病身のため30
  年間自宅を出ず、藩主もそれを認めた。琵琶の演奏にも長け和歌も当代風のもの
  を作り、歌集に『鴫(しぎ)の羽根かき』がある。

 ゛この二川塾から歩いて十四、五町のところに大隈言道の家があり、七,八歳の頃に入門したようである。言道はここで書と歌を学んだ。言道の父は裕福な商家の主であったが、彼が八歳のときに亡くなったので、母と相近に薫育されたといえる〃と文庫解説にいう。
 作歌上の新機軸を案出、さかんに門人を養成し一家をなしていた大隈言道の歌も、福岡にいてはなかなか天下に認められないという事で、六十歳を過ぎてから万難を排して大阪に出て念願の歌集上梓をする。解説には「辺陬の地にいては天下を風靡することが難しい」とあるが、福岡が辺陬と言えるものか、ともあれ江戸・大阪でなければ文芸は認められない時代であったわけだ。
 師匠の二川翁の作が頼山陽と誤伝されるのも無理はないというべきか。こういう例は数多いだろうな。ご縁を大事にして9月27日のご命日には、久しぶりに三弦を取りだして愛恋公女に聞かせてやろうかな。しかし、ワシが三弦を弾くと犬共が狂ったように吠え廻るというのも困ったものだ。犬の皮でも張ってあるのかしら。
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by zo-shigaya | 2004-09-25 18:41