ん、誰か呼んだ?


by zo-shigaya

黄表紙になるととまらない

 黄表紙のことになると止まらない。
 現在刊行されている黄表紙や江戸の書籍の復刻は、たとえば岩波の大系本でさえ、あんなに重くて大きいのに、載っている黄表紙の絵はマッチ箱大のサイズだ。嘘だと思ったらマッチ箱を持って当ててみればよい。添え物のように載せている。そして、絵の中に書き込まれた文章を活字にして、ズラズラと並べて、それに詳細な頭注を付けている。
 ゲンノショウコ(これは煎じ薬)現の証拠に、お店仕舞う。違う、お見せしましょう。
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と、上が岩波古典文学大系本版「金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ」冒頭見開き。これは字を読むためのレイアウトだ。
 注釈を付ける事は、学者の大事な仕事であるが、その折角の成果をなぜ絵と共に楽しめるようにレイアウトできないのだろうか、というのが、私の不満である。絵と字を別々にしてしまっては黄表紙という文学スタイルは理解できない。言えばテレビの映像と、音を別々に流しているようなもので、そもそもメデアとしての生命を奪ってしまうことなのだ。
 黄表紙はもともと、現在の新書サイズより少し横幅のある大きさ、NHKブックスか、筑摩プリマーブックスのサイズだ。縦五寸五分、横四寸二分が標準。その大きさで絵と文字を一緒に眺めるところに黄表紙の醍醐味がある。絵は天眼鏡で見て、字は活字を眺めてなにが面白いものか。
 今まで黄表紙の「メデアとしての生命」を理解して刊行された復刻活字本は大正十五年十月刊行の日本名著全集江戸文芸之部第十一巻「黄表紙二十五種」(山口剛解説校訂)だけだと思う。この本の大きさが、まさに黄表紙原寸に近い判型であり、黄表紙の画面を、本の見開き一杯にして再現している。こうすれば絵が良く判るでしょ。

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しかし、これだけではいけない、というのは、ワシのような無学者には絵の中の字が読めない・・トホホ。
 このハードルを突破したのが実はワシの快挙なのだ。以下に同じ部分の「一読三嘆本(わかる、よめる、おもしろい)」をお見せしよう。
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 いかがですかな。ここまでくれば、ワシの言う「快挙」の意味がお判りでしょう。
そして、アップするために解像度を下げているけれど、絵が格段に綺麗になっていることにも気がつくでしょ。これは、一つには一枚一枚、クリーニングを掛けているのと、現在の刊行本のなかで最も絵の綺麗なのを選んでいるためなの。
 同じ話を復刻した活字本でも、岩波や小学館、新潮社、ぺりかん社などで綺麗さ鮮明さが違う。各社ともその時点での最良の状態の本を底本にしているだろうが、製版の時にどれだけ汚れを落す手間を掛けたか、で、状態が異るのである。その点では、印刷技術の格段に進歩した戦後のものが綺麗で戦前の本が悪いということは言えない。
 だから、拙者が私家版を作るときには、各社の刊行本の比較から行なって底本を選定したのである。
 なんだか、とても偉い学者の仕事のように聞こえるでしょ。比叡山収蔵本と、天理大学図書館の蔵本と宮内庁書陵部本とを比較校訂したような、ね。でも、本当なのだよ。それだけ違うんだから。 
 黄表紙は、言うならば子供向けの人気漫画本みたいなもので、愛読され読み廻され、折れや手垢で汚れてぼろぼろ、べたべた、になった本がほとんど、多くは読み捨てされている。美本を探すことが極めて難しいジャンルで松浦候の蔵書が世に出たとき、江戸文学研究者は、ほんとに随喜の涙を流した、という位のものだ。
 それは、本に限った話じゃなく、庶民の愛したものすべてに言えることで、愛された物ほど復元は難しいのだ。愛恋公女が蒐集しておられる土人形、郷土人形、さてはお雛様も同じなのだ。楽しいもの、愛らしいもの、ほど、失われ消えやすいのだ。あたかも庶民の優しさや善良さ、「気質」のようなものだ。宮本常一さんが『庶民の発見』という本で、日常の生活の中で発揮されている精神の働き、過ぎればほとんど跡に残らない、形にとどめがたい、真善美への注目とそれへの想像力の大事さ、を語っているけれど、ワンダもその事を、ワンワン吠えて訴えるのだ。黄表紙には、江戸人の大事な精神の働きがうかがえる、という事を。偉いか、偉くないかは判らないが、ともかく、エスプリの花が、かくも見事に咲いていたのだ、という証拠にはなるだろう。
 フー、書いてやったぞ、積年の胸の思いを、まだ書くぞ、覚悟して待たれよね、諸君。
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by zo-shigaya | 2005-04-09 14:25