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ん、誰か呼んだ?


by zo-shigaya

丁稚奉公をしながら資本主義を考える

 古本屋の丁稚の修業をしながら、資本主義について考えた。
 熟練ということについて見れば、糊を付ける、封をする、ラベルを貼る、などの作業は格段に早く、綺麗になった。熟練度が上がったわけだ。しからば、その練度を益々高めてゆけば、商業的な成果がぐんぐん増えてくるであろうか。五分が三分になり、さらに一分になり、生産性が上がってゆけば、収益性も2倍、3倍、5倍となるか?
 ここに近代と現代を分ける大きな問題がある。このような手業(てわざ)を、極限まで効率化して、生産性を向上させていっても、収益性は比例しては上がらない。最大収益への限りなき接近にはつながらない(だろう)。
 熟練度に依存した作業は生産性の向上には資するけれども、収益性の限界接近には、なんら資するものではない。熟練度に依存しているかぎり、近代から現代へ、マニュファクチャーから産業資本主義への転換は、絶対に出来ないのである。フフ、資本主義の奥義に触れたかな。
 収益性という指標を実現するには、システムを変換しなければならない。注文を受けて、梱包をする、ということを、完全に人手無しで行なうシステムを開発することが最も大事な(資本主義的に、という意味だ)発想であり、思考なのだ。
 メールで受注したら、自動返信メールが打たれ、同時に宛名ラベルと納品書が印字され、ピッキングされた書籍が自動的に梱包されて運送会社の集配の時間に合わせて所定の場所に集荷される。そのためにピッキングゲージの建設、自動梱包のための機械の開発、梱包材料の革新などが進められる。設備投資が要請される。
 そのシステムは書籍だけに限らず全物品の出荷にも使えるように汎用化されるだろう。
 書籍などの多品種少量の商品はピッキングのコストの極限までの縮小が難しいから他の商品よりもコスト高になる。しかし、それはかえって競争において、設備の償却において先んずれば、後発企業に比して利益率の高止まりを生むから、注文数が一定の量を確保し続ければ、企業収益としては悪くない。
  こんな事かな。どうも商売のセンスが無いから抜けているところが多いような気がする。愛恋の叱正を待つ、か。
 ところで、アマゾンは日々、梱包材に改良を加え、見た目は普通のボール紙だが裏側が波トタンみたいになっていて(なんという比喩だ)ギュッと押し付けるとぴったりくっつく紙を使っている。くどく言えば、本を二枚のこの紙で挟んで本の大きさに合わせてハサミでじょきじょき切れば、切り目がくっついてたちどころにフリーサイズのパッケージになる。(わあ、説明がヘタだなあ)なにはともあれ、便利なものだ。
 で、システムだ、システムだ、と言うついでに、極端な事をいえば、書物は完全に活字媒体から電子媒体(コンテンツ)に変わっていくに違いない。このことは、本の体裁の自由なチョイスを可能にするのではないだろうか。
 今はなんでも文庫本だが、例えば岩波文庫の「近松」を昔の和綴じ本にして読みたい、という人には、和紙や綴紐、糊などの材料一式を電子文(コンテンツ)と一緒に売る。
 自分だけの大事な一冊を、思う様に作るための材料を売ることが本屋の仕事になったりして。
 有名な「ギーズ侯の豪華な時祷書」のような豪華本は、プリンターの精度から、かつ革やら紙やらの材料の制約で、自宅では出来ないとしても、和紙と紐と糸だけで出来る江戸の黄表紙は簡単に制作できる。
  現に不肖私は(ここで反り身になる)、4年前、長い冬の手すさびに、スキャナーとフォトショップで『金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』などなどの黄表紙を自作した。スキャナーで呼び込んでから原画の汚れをクリーニングして、己れの無学の故に、そのままでは読めない行書体の文字を、楷書にかえて同じ場所に嵌め込んで、和紙にプリントして糸で綴じて、誰が見ても楽しめる「一読三嘆の黄表紙」を作成したものである。これは実は、はたで見ているよりも画期的なことなのである。そのわけは・・・
 あまり長くなるから、このへんで一息。
 

by zo-shigaya | 2005-04-08 14:15